天路の旅人

著者:沢木 耕太郎  出版社:新潮社  2022年10月刊  2,640円(税込)  574P


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沢木耕太郎の作品は第10回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『テロルの決算』や第1回新田次郎文学賞を受賞した『一瞬の夏』など、初期の作品から愛読してきた。


しかし、紀行文の金字塔と呼ばれる『深夜特急』はなぜかページが進まず、読みはじめてから9年も経つというのに、全6巻ある文庫本のまだ第3巻に入ったばかり。カルカッタに到着したところなので、まだまだゴールは遠い。


おまけに、このブログをお休みしている間に長い文章を読む体力が落ちてしまい、本を広げて10分後にはまぶたが重くなってしまい、コックリコックリしてしまう始末だ。


そんな僕が沢木耕太郎の9年ぶり長編ノンフィクション、しかも「旅」が題材のこの本を読みとおすことができるのか不安だったが、読書力回復のためのリハビリと覚悟して読みはじめた。


心配していた通り、はじめは少し読んでは休み、少し読んでは休みをくり返してしまった。それでも、一見単調な旅の行程に少しずつ熱中するようになり、1ヶ月もしないで読了することができた。


ことし1冊目の書評は、僕の読書力回復に力をかしてくれた本書を取りあげ、旅の主人公である西川一三と聞き役の沢木耕太郎が紡ぎ出す物語の魅力について書かせていただく。


西川一三(かずみ)は第二次世界大戦末期、日本陸軍から中国大陸の奥地への潜入命令を受け、蒙古人になりすましてチベット仏教の巡礼僧として潜入を開始した。


1943年(昭和18年)に日本の勢力圏だった内蒙古を出発して中国奥地への潜入に成功し、第二次世界大戦が終わったあともそのままチベット、インドまで旅を続けたという。


1950年(昭和25年)にインドで逮捕されて日本に強制送還されるまでの長い旅は、帰国後に長大な旅行記にまとめられ、『秘境西域八年の潜行』という題名で出版された。


出版直後は何度かマスコミにも取りあげられたが、その後は中国やインド・チベットでの経験など忘れてしまったかのように、市井の人として過ごし続けた。


著者の沢木氏が西川氏の存在を知ったとき、壮大な旅そのものよりも、日本に帰ってきてからの日々をも含めた彼の人生そのものに興味を覚えたという。


きっと強い信念を抱いて生きていたに違いない。
旅の達人であり、人生の達人である西川氏に会ってみたくなり、本人へのインタビューが始まった。


1ヶ月に1度、西川氏の住む岩手県盛岡市を2泊3日で訪れ、くわしい旅の様子を訊ねた。
2年かけて旅の一部始終を2まわりインタビューすることによって、『秘境西域八年の潜行』に載っていない意外な事実も発見できたという。


しかし、本質的なところで西川氏の著作を越えるようなエピソードは出てこなかった。


西川一三という希有な人について書いてみたい、と思って続けてきたインタビューだったが、彼の著作をなぞっても仕方がない。
どのように描けばいいか分かるようになるまで、しばらくインタビューを中断することにした。


しばらくの中断のつもりだったが、忙しい沢木氏はオリンピックやワールドカップの取材に追われ、10年以上経過してしまった。


2008年末、沢木氏は週刊誌の訃報欄で西川氏の死を知らされる。
およそ10ヶ月前に89歳で亡くなっていたのだ。


西川氏について書くことをあきらめた沢木氏だったが、インタビューを中断したままにしたお詫びのため、お線香を上げさせてもらうことにした。
しかし、訪問を予定していた日は大雪のため在来線が止まって行けなくなり、その後の日程調整がつかないままになってしまった。


さらに数年後、長編ではなく短編で書くことを思いついた沢木氏がもう一度家族に連絡したところから、本書は完成に向かって動きはじめる。


闘病中だった西川氏の夫人にインタビューすることができ、出版社から帰ってこなかったという『秘境西域八年の潜行』の生原稿を手に入れることもできた。


3,200枚の原稿用紙に綴られた生原稿を2,000ページの文庫本と突き合わせたところ、書籍化する際にカットされた部分がいくつもあることが分かった。


書籍では微妙にわかりにくかった旅の様子が生原稿で浮かび上がってくることに加え、沢木氏が西川氏に50時間近くインタビューした録音テープを聞きなおすことにより、8年におよぶ壮大な旅が立体的に見えてくるようになった。


こうして、どのように描けばいいか分からずに中断したままになっていた著作の書き方が決まった。


西川一三という希有な旅人について、在るがままに長編で描くための材料と方針が揃ったのだ。
発端から終結までに25年を要したことになる。


長い前置きになってしまった。
ここで本来なら西川氏の旅の行程を少しだけでも紹介するべきかもしれないが、内モンゴルを出発して寧夏青海省チベット、ヒマラヤを越え、ついにインドに至る壮大な旅だ。


具体的な地名やルートは読んでのお楽しみとさせていただくとして、特筆すべきは、西川氏の旅が「最低限のお金と最低限の手段で先に進む」というスタイルだったことだ。


お金を出して大勢の人足を集めたり、客として隊商に加えてもらう、などという方法は用いない。


もっぱら歩く。
途中で食料調達できないような荒涼として集落もない地帯を行く場合、食料や荷物を運ぶヤクは用意するが、他の旅人が乗用のヤクも買っているというのに、西川氏は買わない。
お金を貯めてヤクをもう1頭買うよりも、自分の足で歩くことにして早く出発する方を選ぶのだ。


食料をもらうために托鉢していても、

基本的には、その日一日食べる物があればいい。多くの物を貰いすぎ、背中のウールグに溜め込みすぎるということは、荷を重くすることであり、前に進む歩みをつらくすることでもある。

という徹底ぶりだ。


どんなところでも、どのようにしても生きることができるのではないか。という自信がさらに新しい土地を旅してみたいという思いを強くし、先へ先へと旅を続けた。


西川氏の心境を沢木氏は次のように書いている。

 旅における駝夫の日々といい、シャンでの下男の日々といい、カリンポンでの物乞いたちと共の日々といい、デプン寺における初年坊主の日々といい、新聞社での見習い職工の日々といい、この工事現場での苦力の日々といい、人から見れば、すべて最下層の生活と思われるかもしれいな。いや、実際、経済的には最も底辺の生活だったろう。しかし、あらためて思い返せば、その日々のなんと自由だったことか。誰に強いられたわけでもなく、自分が選んだ生活なのだ。やめたければいつでもやめることができる。それだけでなく、その最も低いところに在る生活を受け入れることができれば、失うことを恐れたり、階段を踏みはずしたり、坂を転げ落ちたりするのを心配することもない。
 なんと恵まれているのだろう、と西川は思った。


まだまだ旅を続けたかった西川氏は、強制送還されて日本に戻った。
旅行記を執筆して出版したあとは、何ごともなかったように一商売人としての生活を守りつづけたという。


化粧品店の店主として、元旦以外は必ず自転車で店に行って働いた。
昼は、カップヌードルとコンビニで買う握り飯を2つ食べ、午後5時には店を閉めて、帰りは居酒屋に寄って好きな酒を銚子で二本分飲む。
つまみはほとんど食べずに、帰ってから妻の作った夕飯を食べて寝る、という生活を判で押したように364日くり返した。


沢木氏からインタビューを申し込まれても、昼間の仕事は通常どおり続け、居酒屋で飲む時間に沢木氏と会うことにした。


執筆方針が固まらず、「しばらくインタビューを中断したい」と沢木氏から言われたとき、理由を訊かないまま「いいですよ」言って、いつもと変わらない様子で帰ったという。


西川氏が生きていうちに間に合わなかった本書を出版するにあたり、沢木氏にはさまざまな思いが去来した。
終章に書かれている沢木氏と西川氏との最後の会話は、長い旅の物語を読み終えた読者にも深い読後感を残す……。


沢木氏の長年の読者として、僕が感慨を覚えた彼の過去の作品との共通点が2つある。


1つは、西川氏が娘さんにつぶやいた言葉に対する沢木氏の受け止め方である。


西川氏は亡くなる少し前、娘さんに「……こんな男がいたということを、覚えておいてくれよな」と言ったそうである。


朝日新聞の著者インタビューに答えて、沢木氏はこの話を聞いたときに

「彼女のために、彼がどんな男だったのかを書いて、読んでほしいと思った」

ことを明かしている。


過去の作品で思い出したのは、次のようなエピソードだ。
沢木氏は1979年に歌手・藤圭子をインタビューした後、書いたまま出版するタイミングを失った原稿をかかえていた。
2013年に藤圭子が突然の死をむかえ、封印をとかれることになった『流星ひとつ』の中で、沢木氏は次のように書いている。

二十八歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない……。


2つ目は、もしかすると帰れないかもしれない旅に出る西川氏に向けた沢木氏のまなざしである。


戦場写真家ロバート・キャパの作品「崩れ落ちる兵士」について書いた『キャパの十字架』の最終章で、沢木氏はキャパが写った写真を紹介している。


スペイン内戦を取材していたハンス・ナムートというカメラマンが撮影した写真には一本道を着の身着のまま逃げ出す村人たちが写っていたが、その写真の隅にキャパと恋人のゲルダの後ろ姿が捉えられていた。


顔は写っていなかったが、他の場所で撮られたスナップショット等から、キャパとゲルダであることは間違いないという。


まだまだ無名の2人は、報道写真家として「本当の戦場」を探して人々と逆方向に歩いていった。
この写真の向こうに戦場は無かったのだが、その後も「本当の戦場」を探し続けた結果、ゲルダは10ヶ月後に、キャパは17年と8ヶ月後に戦場で命を落とす。


たどり着く運命を知らずにまっすぐ前を向いて歩く2人を見送る沢木氏の切なさ、温かさが伝わってくる。


西川氏にインタビュー中断を申し入れた日のことを思い出す沢木氏のまなざしも切なく、温かい。


沢木氏もこれが最後の別れになるとは知らなかった。
しかし、ホテルのエントランスで見送った西川氏の姿は、死を覚悟して中国の奥地に歩み去っていく若き日の西川氏と二重写しになって見えたという。


取材対象に寄りそう沢木氏の作風が読者の共感を掻きたてる。


過去の作品を思い出し、そう確信する。


◇ 参考書評

沢木耕太郎著『無名』
  http://d.hatena.ne.jp/pyon3/20040831
無名

沢木耕太郎著『血の味』
  http://d.hatena.ne.jp/pyon3/20041207
血の味 (新潮文庫)

沢木耕太郎著『ポーカー・フェース』
  http://d.hatena.ne.jp/pyon3/20120314
ポーカー・フェース

沢木耕太郎著『キャパの十字架』
  http://d.hatena.ne.jp/pyon3/20130313
キャパの十字架

沢木耕太郎著『流星ひとつ』
  http://d.hatena.ne.jp/pyon3/20140131
流星ひとつ

沢木耕太郎著『キャパへの追走』
  http://d.hatena.ne.jp/pyon3/20150621
キャパへの追走

沢木耕太郎著『CoyoteNo.55特集旅する二人キャパとゲルダ
  http://d.hatena.ne.jp/pyon3/20150630
Coyote No.55 ◆ 旅する二人 キャパとゲルダ 追走 沢木耕太郎