流星ひとつ


著者:沢木 耕太郎  出版社:新潮社  2013年10月刊  \1,575(税込)  323P


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1979年秋のある夜、ホテルニューオータニ40階のバー・バルゴーで、ひとつのインタビューがはじまった。


引退を表明したばかりの歌手、藤圭子に、ノンフィクション作家沢木耕太郎が引退の理由をたずねるインタビューだ。


はじめは原稿用紙200枚くらいと思われたインタビュー原稿は、書きおわったとき、沢木氏の予想をはるかに上回る500枚近い分量になっていた。


しかし、このインタビュー原稿は、ある理由で発表されなかった。
そのまま、日の目を見ないはずだった原稿は、2013年の8月に藤圭子が突然の死をむかえたことで、封印をとかれることになった。


なぜ沢木氏は発表を見合わせたのか。
なぜ今になって往年の人気歌手のインタビューが発刊されることになったのか。


沢木氏が本書に寄せる感慨をお伝えするところから、本書の紹介をはじめさせていただく。


インタビュー当時、沢木氏は31歳。
大学卒業の直後にノンフィクションライターをはじめた沢木氏は、いったん仕事をやめた経験をもっていた。


仕事をはじめて4年たったとき、どこかで違和感をおぼえたという。ジャーナリズムとは異なる世界を求め、日本を離れて1年間の旅をした。
日本に帰ってからジャーナリズムの世界に復帰することにし、旅の前よりも激しい勢いで多くの作品を世に送り出した。


作品を書くときに、沢木氏は「方法」に強いこだわりを示していた。


はじめは、さまざまな人に会い、さまざまに感じたことを書く、というスタイルだった。
しかし、沢木氏はこの方法がイヤになり、一人称ではなく三人称で書くことにする。


三人称の書き方が、30歳のときに書いた『テロルの決算』で一応の完成をみると、こんどは一転して「私」の見たもの聞いたものだけで書いていく方法を徹底したくなった。


この方法で書いた『一瞬の夏』は32歳で世の中に出ていくのだが、藤圭子のインタビューは、「三人称で書く」から「自分の経験だけで書く」への過渡期に行われた。


いつも新しい「方法」を求めていた沢木氏は、いままで見たことのない書き方をためすことにした。


なぜ歌手をやめるのか、を記事にするのだから、藤圭子の人生の軌跡を読者に伝えるために、「地」の文で解説を加えながらインタビューの会話をはめ込んでいく「方法」が考えられる。


沢木氏は、このオーソドックスな方法では満足しなかった。


いっさい「地」の文を加えずに、インタビューだけで藤圭子の過去の人生も、今後の希望も、全部伝える。かつて誰もためしたことのない新しい「方法」に夢中になったことが沢木氏のエネルギー源になり、『一瞬の夏』の新聞連載と並行して500枚の書き下ろしを書く、というハードな山を登ることができた。


しかし、書き終えて読み返してみると、沢木氏は不満に思った。


たしかに会話文だけで書けている。
だが、会ってみて初めて知った藤圭子の純粋さと魅力が表現しきれているだろうか……。

 私は、私のノンフィクションの「方法」のために、引退する藤圭子を利用しただけではないのか。藤圭子という女性の持っている豊かさを、この方法では描き切れていないのではないか……。


担当編集者に相談した結果、作者に迷いがあるなら発表は見合わせたほうがいい、という結論になった。


製本所で手書きの原稿を1冊の本の形にしてもらい、歌手を引退したあとアメリカに渡っていた藤圭子にとどけた。


出版を断念しようと思う、という沢木の手紙を読んだ藤圭子から、「沢木さんの判断に任せる」という返事がとどき、膨大な時間を注いだ原稿は、封印されることになった。


その後、一度だけ出版が検討されたことがある。
2002年から2004年にかけて沢木氏のノンフィクション選集が刊行されたとき、このインタビューが未刊の作品として収録作品の候補になったのだ。


時間をおいて読み返してみると、沢木がこの作品に寄せる思いが変わっていることがわかった。
沢木は、
「むしろひとりの女性の真の姿を描き出していると思えるようになった」
という。


発表の意図を藤圭子に伝えようとしたものの、直接の連絡が取れないまま時間切れになった。
作品は、また封印されることになる。


ところが、2013年8月に、藤圭子の自殺が報じられ、沢木氏の心境が変わる。


娘の宇多田ヒカルや元・夫のコメントが発表され、藤圭子は、精神を病んでいて、奇矯な行動を繰り返したあげくに投身自殺した、という説明が世の中にひろがった。
昔の藤圭子を知る一人として、晩年の不幸だけが報道されるのは忍びなかった。


もう一度、インタビュー原稿を読み返してみると、そこには、輝くような精神の持ち主が存在している。


本書の「後記」に、沢木は次のように書いている。

 彼女のあの水晶のように硬質で透明な精神を定着したものは、もしかしたら『流星ひとつ』しか残されていないのかもしれない。『流星ひとつ』は、藤圭子という女性の精神の、最も美しい瞬間の、一枚のスナップ写真になっているように思える。
 二十八歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの『流星ひとつ』を読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない……。


こうして、34年前のインタビュー原稿が出版されることになった。


沢木氏の意図とおり、本書はインタビューの会話文だけで書かれている。
地の文がいっさいないのはもちろん、話者を示す記述さえ書かれていないので、短い会話が続く場面では、どっちが沢木氏で、どっちが藤圭子かわからなくなる箇所があるくらいだ。


インタビューをはじめる前に、沢木氏は、次のように自らハードルを上げている。

インタヴューというのは相手の知っていることをしゃべらせることじゃない、とぼくは思っているんだ。だって、そんなことは、誰だってできるじゃないですか。(中略)すぐれたインタヴュアーは、相手さえ知らなかったことをしゃべってもらうんですよ。


沢木氏はズケズケ物を言うタイプのインタビュアーで、敬語とタメ口の入りまじった独特の言い方で、藤圭子の心境を引き出していく。


「ハハハッ、馬鹿ですねえ」という沢木にむかって、「ほんと馬鹿ですねえ、われながら」と藤圭子が返す場面が何度も登場し、リラックスした雰囲気が伝わってくる。


インタビューの詳しい内容は割愛させていただくが、インタビューが終わって最後に乾杯するときに、「このインタヴューは失敗しているような気がする」とつぶやいたことはお伝えしておく。


相手さえ知らなかったことをしゃべってもらう、という目標を達成できなかったことを指しているのか、それとも、出版を見合わせる事態を予感していたのか。


沢木氏の意図はわからないが、ぼくは「成功」と見なして良い、と思う。


もし、藤圭子自死を選ばなかったら、
テレビのワイドショーで取りあげられ、あまりにも簡単にかたずけれることがなかったら、
沢木氏がこの本の封印をとくこともなかっただろう。


この本は、「お母さんは、こんな素晴しい人だったんですよ」と、藤圭子の娘である宇多田ヒカルにあてたメッセージであり、藤圭子の幻の墓に手向ける一輪の花である。