この父ありて

副題:娘たちの歳月
著者:梯 久美子  出版社:文藝春秋  2022年10月刊  1,980円(税込)  277P

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9人の女性作家の生涯をたどり、それぞれの父親との関わり方に注目して、人生と作品への父の影響を明らかにする評伝集である。

著者の梯(かけはし)氏が取りあげた9人の名前と肩書きは、次の通り。

   ※9人の敬称は省略する

いずれも長年にわたって著者が愛読してきた作品の書き手だそうだ。
しかし、僕が名前を知っているのは田辺聖子石牟礼道子だけ。
他の7人を含め、どの作家の作品も読んだことがない。

ほとんど初めて知る作家ばかりだったが、本書を読んで、9人がそれぞれ濃厚な人生を歩んだことを知った。

戦前に生を受けた9人は、戦中・戦後の激動の時代を精一杯に生き、死んでいった。
その生き方の背景や前景にある父親の影響を著者は追っていく。

父を尊敬し、深く愛していた人もいる。
どうしても尊敬することができずに父親を軽蔑したり、邪険に扱った人もいるし、それを後年になって悔やみ続けた人もいる。

一人あたり20ページ弱の分量に激しい喜怒哀楽が濃縮されていて、心にズシンと響く。
なかなか読み進めることができなかった。

ダイジェストで紹介しても仕方がない種類の本なので、「共通点を感じた2人」という観点で、2組だけ紹介させてもらう。


1組目は、修道女の渡辺和子と歌人の齋藤史。

渡辺和子の父は陸軍の幹部を歴任した渡辺錠太朗である。
1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が起こったとき、陸軍教育総監を務めていた父が自宅で射殺された。

当時9歳だった渡辺和子は父が射殺された部屋にいたが、奇跡的に生き残った。
とっさに父が隠してくれた座卓の影から、一部始終を目撃したという。
著者のインタビューに答えたとき、渡辺和子は、

「9歳までに一生分愛されたと思っています」
「私がいなければ、父は自分を憎んでいる者たちの中で死ぬことになりました。私は父の最期のときを見守るために、この世に生を享(う)けたのかもしれないと思うときがございます」

と語った。

齋藤史の父、齋藤瀏も陸軍将校である。
陸軍に勤務しながら歌人としても活動していて、娘の齋藤史も若山牧水に背中を押されて歌を詠むようになる。
二・二六事件が起こったとき父は予備役だったが、反乱軍を幇助したとして逮捕され、禁錮刑となる。

渡辺錠太朗は二・二六事件で殺された側であり、齋藤瀏は反乱軍を支援した側というのが二人の関係である。

不思議な因縁だが、二人は陸軍の転勤により、かつて同時期に北海道旭川の第七師団に所属していたことがある。
渡辺錠太朗が師団長で齋藤瀏が参謀長だったが、同じ任地にいた二人の娘は会ったことがないそうだ。

当時、旭川近くの景勝地である層雲峡に陸軍が療養所を建て、記念に碑がつくられた。
1928年(昭和3年)に建立された碑面には二人の名前が刻まれていて、二人の軍歴がこの地で重なっていたことを示している。

1980年(昭和55年)にこの碑を訪れた齋藤史は、二人の名前を見つけたとき、複雑な思いを抱いたようだ。

  人の運命(さだめ)過ぎし思へば
  いしぶみをめぐるわが身の何か雫す

と詠んでいる。

一方の渡辺和子も2007年(平成19年)の夏に、この碑を訪れた。

二・二六事件の関係者で立場の違う二人が、時を隔てて、同じ碑文に接したのだ。


2組目は、作家の島尾ミホ石牟礼道子

島尾ミホは、1946年(昭和21年)に島尾敏雄と結婚した。
長男、長女を授かったあと夫の心は家の外に向き、島尾ミホは夫の女性関係に傷つけられるようになる。

少し長く引用する。

 ある女性との情事を綴った島尾の日記を読んでミホが狂乱の発作を起こしたのは、一九五四(昭和二十九)年九月のことである。
 その日から、ミホは家事も子供たちの世話も放棄して昼夜の別なく島尾の不実をなじり、女性との交渉の細部を詮索するようになった。夜中に家を出て電車に飛び込もうとしたり首をくくろうとしたりするため、島尾は一時も目を離すことができない。
(中略)
 島尾はミホを慶応大学病院の精神科に入院させるが、脱走騒ぎを起こして退院させられてしまう。生活は行き詰まり、島尾は心中を考えるところまで追い詰められた。
 愛人の女性が家を訪ねてきたことから症状はますます悪化し、ミホは千葉県市川市にある国立国府台病院精神科の閉鎖病棟に入院することになる。島尾は子供たちを親戚に預け、妻とともに病棟の中で暮らすことを選んだ。
 ミホが日記を見たときから入院までを描いた島尾の作品が、「私小説の極北」と呼ばれる『死の棘』である。

島尾ミホは、結婚するときに父親を捨ててしまったように感じ、自分を責めていた。
父を捨ててまで一緒になった夫の不実に、ミホは深く傷ついてしまったのだ。

かたや石牟礼道子には、夫の不実に苦しんだ祖母がいた。

また少し長く引用する。

 道子の母方の祖母・吉田モカは、家族から「おもかさま」と呼ばれていた。道子が物心ついたときには目が見えなくなっていて、杖がわりの青竹を引きずり、日に何回となく通りを行き来した。白い蓬髪に自分で引き裂いてぼろぼろにした着物という姿で、よその店先に立ってひとりごとを言う。苦情がくると、父か母があわてて飛んで行った。
 道子はこの祖母と不思議に心が通いあった。ほかの人には触らせようとしない髪を櫛で梳(す)いてやり、姿が見えなくなると手を引いて連れ帰った。
 おもかさまが精神を病んだ理由は、夫の松太郎が「権妻殿(ごんさいどん)(隠し妻)」を持ち、二人の子をなしたことだった。その女性と暮らす別宅から松太郎が帰ってくるといつも、何ごとかをつぶやきながら家を出て行った。探しに出た道子が「はよ戻ろ」と腰に取りすがると、「みっちんかい」とやさしく言い、「松太郎殿(どん)は、まだ居られるかえ」と聞く。道子は切ない気持ちになり、おもかさまの手を引きながら泣きじゃくった。

石牟礼道子が他人の悲しみを敏感に感じとる子どもだったことが分かる。

ふるさとの自然を破壊された人々の苦しみと悲しみを綴った『苦海浄土 わが水俣病』は、この作者によって書かれた。


「あとがきにかえて」のなかで、著者の梯氏は、

  「女性がものを書くとはどういうことか、というこ
   とに、私は長く関心をもってきた」

と書いている。

「娘と父の関係」という観点で、著者はこの問いに向けた9つの考察を示している。