著者:斎藤 美奈子 出版社:岩波書店 2017年1月刊 \907(税込) 244P
著者の斎藤美奈子氏は、文芸評論家として多くの文芸評論や書評を書いている。
僕もブック・レビュアーを名乗っているので、「同業です」と言いたいところだが、活動量がまるで違っている。
もちろん出版した本の数は比べものにもならないが、驚くのは斎藤氏の読書量だ。
1本の書評に1冊の本だけ取り上げたりしない。
数冊から十数冊の書名をならべ、まとめて串刺しにしたり、1冊ずつさばいたりしながら1本の原稿に仕上げていく。
次から次と本を飲み込んでいく姿は、まるで大食いチャンピオンのようだ。
こっちが1杯のラーメンを味わっている間に、10杯も15杯もすごい勢いで飲み込んで消化していく。
人間離れした食欲に、あ然とするばかりだ。
今回の斎藤氏の食材、もとい題材は「文庫解説」。
単行本と違って、文庫本の巻末には解説が付いている。有名な作品は複数の出版社から文庫が出ているから、解説文も文庫の数だけ種類がある。
本書は、複数の版元から出版されている文庫本作品を取り上げ、解説文を読み比べる評論である。
名作と呼ばれる作品、外国語文学、評論、思想、現代文学と、取り上げるジャンルもいろいろ、解説もさまざま。文庫解説のめくるめく“ワンダーランド”を斎藤美奈子らしく分析している。
では、「斎藤美奈子らしく」とはどのような分析なのか。
それは「分析対象を舌鋒鋭く切り刻む」という作風で、端的にいうと「毒舌」である。
斎藤氏の手にかかると、多くの解説がけちょんけちょんにケナされてしまうのだ。
もちろん、内容によっては褒めているものもあるのだが、ダメ出しの強烈さ、見事さの印象が強く、読みおわったあと褒めていた箇所を思い出そうとしても浮かんでこない。
新潮文庫版『伊豆の踊子』巻末の三島由紀夫が書いた解説を一部引用したあと、
世の読者は、これを読んで『伊豆の踊子』の何かがわかった気に
なるのだろうか。私にはチンプンカンプンだ。
とバッサリ。
伊藤整の『雪国』解説も、
わかったような、わからぬようなだ。
と切り捨てたあと、2人まとめて次のようにとどめを刺す。
三島由紀夫や伊藤整のようなタルい評論は、今日の文芸批評界ではほとんど目にしなくなった(そうでもないか)。いまやほとんど骨董品。その歴史的価値は認めるも、古色蒼然たる解説の前で途方に暮れる読者こそ災難だ。そこで温存されるのは「よくわからないけど、スゴイらしい」という無根拠な権威だけ。文学離れが起きるのも当然かもしれないな。
また、村上龍作品の解説読み比べでも、金原ひとみの文庫解説を引用したあと、
まあ「私と『コインロッカー・ベイビーズ』」という題の似合う高級読書感想文ですね。
とディスる。
三島由紀夫も伊藤整も、文学史に載っているような有名作家だし、金原ひとみは綿矢りさと芥川賞を同時受賞して話題になった作家なのに、全く容赦しない。
それは、斎藤氏が権威を恐れない、いや、恐れないだけでなく、むしろ権威に逆らわずにいられない御仁だからだ。
もう一つ例を挙げると、難解とされる小林秀雄にも斎藤節が炸裂している。
まず、小林秀雄の『無常という事』の本文に、
ということで読んでみたのだが、一行目で早くもつまずいた。意味が全然わからん!
と、かみつく。
難解とされる評論家の文章に接すると、ふつうの人は「理解できない自分が悪い」と考えてしまうのだが、斎藤氏は違う。
分かるように書かない方が悪い! と、堂々と主張する。
それでも読者のために、この分かりづらい文章を放り出さずに追いかけるのだが、とうとう、
なぜよりにもよって教科書は、数ある小林秀雄のテキストの中から論理が迷走したこの作品を選択したのか。そもそも評論文ではなく随筆だし、これなら骨董関係の随筆のほうがまだマシだ。
と、教科書編集者にまで文句を言う。
著者本人へのダメ出しが一段落したところで、こんどは解説を書いた江藤淳を標的にする。
まず、
江藤の解説も小林の本文同様けっして論旨明快とはいえない。
と前置したあと、『モオツァルト』の解説を引用する。
しかし、つっかえずにすっと読めるのは、
『モオツァルト』が書かれたのは、昭和二十一年七月である
という書き出しだけ。
他の3ヶ所の引用文は、何を言っているのか分からない。
読者になり代わり、斎藤氏は次のように糾弾する。
このへんでもうお手上げ。わけがわからん。初読の読者にはなおさらだろう。
江藤の解説が分かりにくいのは、二つの理由による。
第一に、小林の内面に寄り添おうとしていること。
第二に、にもかかわらず、小林の内面の背後にある伝記的事実は伏せていること。
このモヤモヤを埋めるには、江藤淳『小林秀雄』(講談社文庫/二〇〇二/現在品切れ)を読まなければならないという面倒臭さ。不親切すぎるぜ。
以上、斎藤氏が怒っているところばかり紹介してしまったが、怒ってばかりでは読むほうも疲れてしまう。
もう少しアドレナリンが少ない箇所もあるので、やわらかめの小説も見ておこう。
「恋愛小説というよりソフトポルノ」という性質の作品なので、文庫の解説も、ストレートに内容に触れるのははばかられる。
代わりに何を書くかというと、ともかく「遠回り」するのが一つの方法である。
代表的な「遠回り」解説は、文芸評論家の川西政明が書いている。
編集者時代に渡辺淳一の編集者だった川西政明は、「渡辺淳一が京都へ行きはじめたのは、十五年前だったろうか」と書き出したが、すぐに話題が京都の「遊び」に脱線する。
里見紝が祇園で遊んだ姿を瀬戸内晴海が書いていることを紹介したあと、志賀直哉、武者小路実篤、里見紝ら白樺派の天皇観について述べ、こんどは白樺派とは別に日本の美を形成したのが谷崎潤一郎であることに言及し、渡辺淳一が谷崎潤一郎に早くから傾倒していたことを示す。
文学者の名前がやたら出てきたあと、やっと渡辺淳一が登場した。
……と思ったら、遠回りはまだ続く。
「ここで問題になるのは自然である」と、やれ水上勉が雪深い寒村を
背負っているだの、北海道の自然は違っているだの、まだまだ続く。
斎藤氏は、次のような賛辞を送る。
げに評論家とは恐るべきものなり。語るべき要素が少ない作品をどう語るか、という難問への、ひとつの回答がここにはある。作品そのものには深入りせず、余った紙幅はできるだけ絢爛豪華な固有名詞で埋める。天ぷらを大きく見せる「はなころも」の技法である。
褒めてないだろ!
遠回り作戦の次に出てくるのは、「もてなし」である。
女性作家たちが頼まれた解説の多くは、文学賞のパーティーなどで渡辺淳一に「恋愛指南」されたエピソードを綴っている。
対等な立場なら「セクハラ!」と訴えたくなるような渡辺淳一の発言だが、相手が大御所なので女性作家たちは言い返すことができない。
そこで、渡辺淳一の失礼な発言を全く気にしていないふりをして、スナックのママが「まあセンセ、お久しぶり」と客をもてなすように、単なるセクシートークに変えてしまう。
私は気にしていませんからねー、と言いながら、セクハラの内容をバクロする。
斎藤氏が引用したのは、直木賞作家の唯川恵、村山由佳、直木賞選考委員の林真理子、角田光代などの有名作家たち。
「褒めず殺さずの高等テク」との評価に納得してしまう。
著者なんかエラくない。
解説者も、著者にリップサービスしてないで、ちゃんと書け! という斎藤氏のお言葉を堪能あれ。