高峰秀子との仕事〈2〉


副題:忘れられないインタビュー
著者:斎藤 明美  出版社:新潮社  2011年4月刊  \1,470(税込)  252P


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4月30日の読書ノート『高峰秀子の捨てられない荷物』を取りあげたあと、ジュンク堂で3月24日に収録された斎藤明美氏の講演ビデオをYouTube で見た。(http://www.youtube.com/watch?v=AaZHJo-qF4M 参照)


自らの立場を「私は高峰秀子の番犬のようなもの」と譬え、高峰秀子を取材し続けたライターとして、また養女として、高峰秀子の思い出を語っていた。斎藤氏の語る高峰秀子のすばらしさ、斎藤氏が高峰秀子に受けた恩義の大きさが聴衆の心に残る内容だった。


一人の取材記者だった斎藤氏が、高峰秀子と仕事を重ねるうちに距離を縮めていった。その様子をもっと知りたいと思い、本書を手にした。




女優業を早々と55歳で引退した高峰秀子は、執筆業も徐々に減らしていき、70歳を超えたあたりから、編集者からの依頼をほとんど断るようになったという。


高峰秀子と親しいことが知られていた斎藤氏の元にも、秀子に原稿依頼したいので、取りついでもらえないかという相談が何件も寄せられたが、斎藤氏は断り続けた。

女優業も執筆業もやめて、ようやく念願の静かな生活を手に入れた“老母”をそっとしておいてやりたい。

と思ったからだ。


しかし、一方で、高峰秀子にインタビューや寄稿をどうしても依頼したくなる編集者として自分が鎌首をもたげることもあった。そんなとき、ジレンマを感じながらも、斎藤氏は意を決して高峰に原稿を依頼する。


本書には、こころよく「ご祝儀だよ」と原稿を書いてくれたり、根負けして「何が聞きたいの」とインタビューに応じてくれた高峰秀子との仕事がいくつも登場する。


なかでも、高峰が細部まで心配りしてくれたのが、前回取りあげた『高峰秀子の捨てられない荷物』を世に送りだすことだった。


インタビューの場所代が会社持ちではなく、斎藤氏の自腹であることを知ると、高峰は、安価に利用できる会議室を紹介する。


巻末に一文書いてもらいたい、との依頼に、一度は「書きませんね」と拒絶するが、斎藤氏の原稿完成に合わせて「ひと言」をプレゼントする。


本の装丁を相談されると、デザイナーとの打ち合せにまで出席して、自分のイメージを伝え、しおり紐の色まで提案する。


そもそも、『高峰秀子の捨てられない荷物』というタイトルも高峰の命名だったのだ。


出版後の広告にも気を使い、映画関係者ではなく、作家の出久根達郎に書評を書いてもらうことを提案したりもした。実際に出久根の書評が「週刊文春」に載ると、自宅にお礼に伺うよう、斎藤に指示する。

「お礼に、出久根さんに焼酎を差し上げたいの。前にお目にかかった時、焼酎が好きだとおっしゃってたから。ちょうど珍しい焼酎が手に入ったのよ。あんたね、宅配便なんかで送るんじゃなく、あんたが直に出久根さんのお宅にお届けしなさい。前もってお電話して、奥様が家にいらっしゃる時間を伺いなさい。出久根さんにおうちにいていただくようなご迷惑をかけちゃいけませんよ、忙しい方なんだから。そしてお宅に行ったら、『焼酎は高峰から出久根さんに。これは私から奥様にです』と言って、お花を持って行きなさい。大げさでないお花がいいわ。そうねぇ、今ならスイートピーがいいと思う。可愛らしいし。そしてね、その時、決してお宅に上がり込んだりしちゃいけませんよ。玄関先で失礼しなさい。いいわね」


高峰の心配りは、ここまで行き届いたものだった。


ところで、3月14日の読書ノートで取りあげた『ポーカー・フェース』のなかに、沢木耕太郎は「挽歌、ひとつ」という高峰秀子の死を悼む一文を収録している。

沢木耕太郎高峰秀子を高く評価する人物の一人だが、本書「高峰秀子との仕事」には、2002年に行われた沢木と高峰の長文の対談が(たぶん全文)載っており、二人が意気投合する様子が生き生きと再現されている。


印象的だったのが、「僕ね、人生の計画を立てたことが、まずないんです」という沢木に対し、高峰は30歳で結婚、60歳まで奥さん業を務め、60を過ぎたら読書三昧、という人生設計をたて、その通りに生きてきたこと。


どこにも出かけずに本を読む生活に満足し、「今が一番幸せですよ」という高峰は、サッカーW杯取材のため近くソウルへ行くという沢木を暖かく送りだして対談を終える。


いつしか、沢木は旅先から高峰に手紙を出すようになり、二人が交流を深めていくことが沢木の「挽歌、ひとつ」には書かれているが、そのきっかけともなったのは本書「高峰秀子との仕事」に収録された対談なのだろう。


直接会うのがまだ二度目だというのに、お互いに相手の著作や近況を熟知し、「理解」しあっていることが、言葉の端はしにあらわれている。



斎藤氏は、高峰秀子を「かあちゃん」と呼ぶほど親しいことを自著に書いたが、同業者や評論家からの風あたりはきつかった。


「書いた本人が登場するなんてあり得ない。読んでてウンザリする」
高峰秀子を母親だと思うなんて図々しい」
などと言われることもあったそうだ。


半分めげながらも、斎藤氏は高峰とのエピソードを書きつづける。


斎藤氏は言う。

 高峰秀子は、身内びいきなどというつまらぬ動機で書かれるほど、凡庸な人物ではない。
 書かずにはいられないほど人を突き動かす、稀有な人だ。
 だから書いた。
「高峰で商売している」「死んでまで高峰で儲けようとする」……何と言われようと構わない。
 私はこれからも書く。
 何百回生まれ変わっても、決して二度とめぐり逢えない、高峰秀子という見事な人物のことを、書き続けたいと思う。


2冊シリーズの本書「高峰秀子との仕事」発刊は、高峰との最後の共同作業となった。
養子縁組を結び、斎藤氏が松山善三高峰秀子夫妻の養女になったのも、本書の雑誌連載が終わろうとしているころだった。


まさか発刊までに高峰が亡くなってしまうなどと想像もせず、斎藤氏は病室のベッドにノートパソコンを持っていったそうだ。
編集者から送られてきた2冊の表紙カバー画像を見せたとき、高峰は「うん、うん」と大きく二度頷いてくれた。


斎藤氏は、「あとがき」に次のように記した。

  高峰秀子に出逢えた人生に感謝する。

《参考書籍》


斎藤明美著『高峰秀子との仕事〈1〉』


副題:初めての原稿依頼
著者:斎藤 明美  出版社:新潮社  2011年4月刊  \1,575(税込)  300P
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