ストーナー

著者:ジョン・ウィリアムズ/著 東江一紀/訳  出版社:作品社  2014年9月刊  2,860円(税込)  333P


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アメリカの片田舎の貧しい農家に生まれ、大学の一教員として人生を終えた男の一生を描いた小説である。


主人公のウィリアム・ストーナーは1891年にミズーリ州の貧しい農家に生まれた。
農家の後を継ぐために新しい農業技術を習得してくるよう父に言われ、19歳のときミズーリ大学農学部に入学する。
しかし、2年生のとき、必修科目で受講した英文学の授業がストーナーの進路を変える。文学の魅力に惹かれ、専攻を文学に変更してしまったのだ。


卒業後に農家を継ぐことはなく、学位取得後、母校の常勤講師の職に就いた。
その後、英文学の研究と学生の指導にはげみ、結婚、助教授への昇進、長女の誕生という人生の節目を経験していく。


一見すると順調な経歴に見えないこともないが、大学では出世と縁遠く、教授に昇進することはなかった。また、心休まる家庭を作ることに失敗したストーナーは、職場でも家庭でも忍耐を重ね、65歳で病のため亡くなる。


身も蓋もない言い方をすると、うだつの上がらない大学教員が悲しい不幸な生涯を送った様子を淡々と描いた小説である。


本書は1965年にアメリカで出版され、発表当時は少し話題になったが、アメリカンヒーローと真逆の主人公が広く受け入れられることはなかった。


その後長らく忘れられていたが、2011年にフランスで発行された訳書がベストセラーになり、その後全世界で読まれるようになった。
日本でも26刷で1万5千部が売れているという。


盛り上がりに欠けるストーリーが読者を引きつけるようになったのは、何らかの生きづらさを抱えて生きている人が多くなったからかもしれない。


「訳者あとがきに代えて」の中で、布施由紀子氏は次のように語っている。

彼は運命をつねに静かに受け入れ、かぎられた条件のもとで可能なかぎりのことをして、黙々と働き、生きてゆく。
 読んでいると、さざ波のようにひたひたと悲しみが寄せてくる。どのページの隅にもかすかに暗い影がちらつき、これからどうなるのだろう、ストーナーはどうするだろうと、期待と不安に駆られ、もどかしい思いでページを繰らずにはいられない。(中略)しかしそんな彼にも幸福な時間は訪れる。しみじみとした喜びに浸り、情熱に身を焦がす時間が……。ぎこちなく、おずおずと手を伸ばし、ストーナーはそのひとときを至宝のように慈しむ。その一瞬一瞬がまぶしいばかりの輝きを放つ。なんと美しい小説だろう。そう思うのは、静かな共感が胸に満ちてくるからにちがいない。
 とても悲しい物語とも言えるのに、誰もが自分を重ねることができる。共通の経験はなくとも、描き出される感情のひとつひとつが痛いほどによくわかるのだ。そこにこの作品の力があると思う。


「共通の経験はなくとも」と布施氏は書いているが、冒頭の2ページを読んだとき、僕自身は主人公と自分の境遇がそっくりであることに驚いた。


ストーナーはコロンビアから40マイル(約64Km)離れた農場に生まれ、6歳で農作業の手伝いを始め、「高校を終えたとき、畑仕事をもっと多く引き受けることになるのだろうと覚悟」していた。


僕も北海道で酪農を営んでいる両親の元に生まれた。大学のある大きな街まで直線距離で25Km離れた田舎だった。
ストーナーが「雌牛たちの乳を搾り」始めた6歳のときに僕も牛の世話をし始め、いずれは農業高校に通って家業を継ぐことを覚悟していた。


ストーナーは自分だ!」


まさか、小説の冒頭で自分と同じ境遇の主人公に出会うとは……。


僕は農業高校ではなく普通高校に進学することを中学3年で決めた。
ストーナーは僕より遅く、大学2年生のときに農学部から文学部に転部した。


自分は両親の期待に背いてしまう。
貧しい両親とふるさとを見捨ててしまうことになってしまう……。


無口なストーナーは言葉に出さなかったが、心のつぶやきが僕には聞こえた。


転部したことを家族に伝えなければならないのに、夏休みに実家に帰省しても何も言い出せなかったストーナーの気持ちが、痛いほど分かる。


ストーナーの不器用な生き方に目が離せなくなってしまい、その後も1ページ1ページ、愛おしむように読み通した。


仕事でも家庭でも、耐えることの多いストーナーの人生だったが、溜飲が下がる思いをした場面が一箇所だけあった。


ストーナーを冷遇しつづけたローマックスという上司が、嫌がらせのようにストーナーのために晩餐会を開催することになった。
学生時代からの親友フィンチとストーナーは次のように語り合う。

「金曜の晩餐会のことだが、無理して出席しなくてもいいんだぞ」
「いや、行くよ」ストーナーはにんまりして言った。
「ローマックスにはまだ借りがある」
 古(いにしえ)の笑みが亡霊のごとくフィンチの顔によみがえった。「きみはいよいよ、偏屈学者の域に達したようだな」
「そうらしい」ストーナーは言った。


意に染まない仕事を押しつけられ続けたストーナーだが、それでも上司に反抗する気概を無くしていない。
それを親友が「偏屈学者の域に達したようだな」と褒めたたえたのだ。



物語の終盤、病のため余命いくばくもなくなったストーナーは、死の床で自分の人生を振り返る。


自分は人生に何を期待し、何を得たのだろう?


悔恨と悲しみに満たされたシーンではあるが、魂が解放されるハイライトでもある。
そんな場面を読みながら、僕はチャイコスフキーの交響曲第6番「悲愴」第4楽章を連想した。


「悲愴」第4楽章では、人生を回想しむせび泣くような悲しみに彩られた主題が繰り返され、悲壮感が盛り上がる。
クライマックスが激しく劇的に演奏された後、悲しみに終止符を打つドラが鳴り、静かにメロディーが下降していく。


心臓の鼓動を思わせるようなコントラバスのピッチカートが「ボンッ……ボンッ……」と繰り返され、最後に途切れて消えるように曲が終わる。


「悲愴」感に満ちあふれた余韻がただよい、指揮者も聴衆も、しばらく身じろぎできない。


ストーナーが息を引き取った時も、僕はしばらく本を閉じることができなかった。



最後に、著者と訳者が本書を推薦している言葉を引用させていただく。


著者のジョン・ウィリアムズは、著者インタビューに答えて、次のように語った。

わたしは、彼はほんとうの意味での英雄なのだと思っています。この小説を読んだ人の多くは、ストーナーがとても悲しい不幸な生涯を送ったと感じるようですが、わたしは、じつに幸福な人生だったと思います。


また、訳者の東江一紀氏は次のように語っている。

平凡な男の平凡な日常を淡々と綴った地味な小説なんです。そこがなんとも言えずいいんですよ。