本が好き、悪口言うのはもっと好き


著者:高島 俊男  出版社:文春文庫  1998年3月刊  \540(税込)  319P


本が好き、悪口言うのはもっと好き (文春文庫)


中国文学に滅法あかるく、日本語の使い方に一家言も二家言も持つ偏屈おやじが、バッサバッサと浅薄な文化人を切りまくるエッセイ集です。


私が書くブックレビューでは、なるべく悪口を書かないようにしていますが、きちんとした「悪口」は、読んでいて気持ちのいいものです。最近読んだ本では、斎藤美奈子氏の『物は言いよう』が最高でした。斎藤氏の文章は「悪口」を超え、もう「芸術」の域に達しています。
高島氏の悪口は斎藤氏と方向が違うものの、本物だけが発する芳香に満ちた文章の数々は、やはり芸術品と言ってよいでしょう。


芸術作品は鑑賞するものであって、批評したり解説したりするものではありませんので、特に素晴らしいと感じた個所を紹介させていただきます。


その1。
高島氏は、最近の日本語の辞書から古い言葉、死滅した語がどんどん削除されている現状を嘆き、そのような編集方針に異を唱えています。ただし、年寄りが、自分の知っている言葉を懐かしむあまり、懐古的な立場で文句を言っているわけではありません。
私たちが現在享受している文化は薄皮一枚のようなもので、その下には分厚い過去がある。というのが高島氏の認識です。
現在に生きるだけの浅薄な生き方を廃するには過去と対話しなければならず、過去の先達に話を聞くには、過去に生きていたことばや事物についても知る必要がある。それなのに、今はもう無くなってしまったことばを辞書から消してしまったら、過去と対話することができなってしまいます。


高島氏は、次のように結びます。
   薄皮一枚、下のことはよくわかりません――そんなはかないことで、
  「今日の文化全体」がどうしてやってゆけようか。
   わたしはそう思う。


その2。
漢字をはじめ中国文化の恩恵を受けて日本の文化が成立した、という言い方をよく聞きます。中国文化の影響は否定しないものの、高島氏は「恩恵」などと恩義には感じていないことを強調します。同音異義語が多いことで分かるように、現在の日本語の語彙のうち約半分が字音語 (漢字の音読みで成り立つことば)ですが、高島氏は、これを日本語の宿命的な缺陥と言います。
(「缺」は「欠」の旧字。本書の冒頭に、無分別に旧字を廃したことを糾弾する一文も載っていますが、ここでは措きます)


日本文化は中国文化より誕生がおそかったので、文字も遅かった。もし中国の言語・文字が入ってこなければ日本語は健全に成熟し、いずれやまとことばに適した文字を生み出していたに違いない。
それが、まったく違う言葉と文字の「侵入」によって、日本語は発育を阻止され、音だけでは意味が通じない、文字を見なければ伝達できない言葉ができあがってしまった。と高島氏は嘆きます。


この他、中国文学の造詣が深いだけあって、「ネアカ李白とネクラ杜甫」は絶品です。
また、「知らず何れの処かこれ他郷」で明かされる田舎ぐらしの様子は、ドーデーの『風車小屋便り』を思い起こさせます。


芸術作品には好き嫌いがつきものですが、ぜひ一度、鑑賞してみてください。


さて、わりと新しい本を取り上げている私が、なぜ9年前の本を手にしたのでしょう。
実は、学生時代の友人で、今も交流のあるH君に教えてもらったのです。
H君は、某電気メーカーに勤めるかたわら、松岡正剛氏が校長を務める「ISIS編集学校」というインターネット上の学校で師範を務めるインテリです。
学生の頃から何事につけ一言居士で、ときおり私の書いた書評原稿に鋭い指摘メールを送ってくれる読者でもあります。


手厳しい読者から本の推薦を受けたからには、受けて立つしかありません。


本の紹介を一通り終えたところで、編集学校の師範に対抗してみましょう。編集者的見地に立ち、高島氏の作品に2個所ダメ出しをします。

(1)P23に誤植あり
(中国の文化大革命のころ、モンゴルへ「下放」された少女たちの話題で)「少女が現地の青年と知り合いにある。」とあるのは、どう見ても「知り合いになる。」の誤りです。
 これほど文字や言葉にうるさい本で言葉遣いを誤る。しかも、文庫本に至っても間違いが残っているというのは由々しき一大事ではありませんか。そこんとこ、どうなんですか。えー、高島センセ。

(2)不用意な差別発言
  (「母国語」を無神経な言葉として糾弾する文中、P81で)
  「今地球上にある国の数は、多めに数えても、せいぜい170ほどである。
   だから、平均して一国あたり二十種ほどの言語が使われている(中略)
   ただしこれはあくまで平均である。実際には、日本のように一つの国で
   一つの言語しか用いられていない国もある」


 おっと、高島センセ。日本にもアイヌ語という少数言語があることをお忘れですか?
「母国語」というのは、一つの国に一つの言語という乱暴な前提に立った言い方だから不愉快だ。という論旨の最中に、日本には一つの言語しか存在しない、という乱暴な言い方をするのは論旨不統一。これでは、少数民族を差別する発言と言われても仕方ありません。
 不用意な言い方ではありませんか?


さあ、H君。
キミは私の編集コメントをどう思うかね。


何? 重箱の隅をつつくんじゃない?


重箱の隅をつつく楽しさを教えてくれたのは、誰あろう高島俊男なんだぜ。