大名倒産 上・下

著者:浅田次郎  出版社:文藝春秋  2019年12月刊  1,760円(税込)  351P


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著者:浅田次郎  出版社:文藝春秋  2019年12月刊  1,760円(税込)  348P


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浅田次郎の作風をものすごく乱暴にまとめてしまうと、

  読者の哀惜や悲しみの涙を誘うなにわ節小説

と、

  読者の腹の皮をよじるお笑い小説

の両方を得意とする作家だ。

(異論のある人はお許しあれ。超ザックリ言い切ったので……)


本書『大名倒産』は、お笑い小説成分8割のなかに、そこはかとない感動を2割混ぜ込んだ「ハイブリッド小説」である。


物語の舞台は江戸末期。
黒船来航以来、世の中がザワついているというのに、幕府の余命があと数年しか残っていないことを誰も予想できない。


260年あまり何も変える必要がない、変えてはならないという考えが常識となり、理由もわからぬ「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)」が積み重なっていく時代背景のなか、名家を継いだばかりの若殿が主人公である。


継いですぐに若殿が気づいたのは、代々の借金が膨大な金額に達していることだった。


負債総額25万両。利息が毎年3万両なのに、歳入はたったの1万両。


江戸時代には、大名が借金を踏み倒す宣言をする「お断り」という手段があったが、これほどの巨額になってから「お断り」をした前例がない。


先代の殿様は、隠居する前に悩んだあげく、お取りつぶし覚悟で「大名倒産」を計画する。


商人にはこれ以上ビタ一文も返さず、手に入った現金を密かに貯めながら、業を煮やした幕府からの改易命令を待つ、という作戦だ。


改易になると、当主一家は改易先の裕福な御大名にお預けとなる。


家臣たちには、当面の生活費として貯めた金を渡し、あとは新しい主君を探すなり、帰農するなり、小商いをはじめるなり、自分でがんばってもらう。


当主になったばかりの若殿だけは、責任を取って切腹してもらうことになるが、まあ仕方ない、……というのがご隠居様の考えだ。


しかし、そんな計画を聞かされていない若殿は、あたまに「クソ」がつく真面目な性格のままに、なんとか財政再建できないものか、と奮闘しはじめる。


隠居した先代の殿様があきらめた財政再建を、若殿がなし遂げられるのか。
ふたりの対決のゆくえは……。



次々とふりかかる難題を若殿が解決していくエンターテインメントが本書の読みどころだが、浅田次郎は得意のファンタジーを繰り出し、貧乏神と死神と七福神を登場させて、人間の物語と神の物語を重ねていく。


大黒天、弁財天、福禄寿たち七福神財政再建を後押しし、死神が重要な登場人物を黄泉の世界に送ることによって、ギリシア神話の神々が人間たちを翻弄するように、物語が重層的な厚みを帯びてくるのだ。


七福神のうち日本の神様は一人しかいない、というのは初耳だった。


大黒天も大きな袋を持っているので大国主命(おおくにぬしのみこと)と間違えられることが多いが、実はヒンドゥー教シヴァ神のことだったとは……。


本筋と関係ないが、七福神が結成されるまでの経緯が笑える。

 天竺(てんじく)は人間も多いが神も多いのである。人間にとって人ごみは嫌であろうが、神にとっての神ごみはさらなる苦痛であった。しかもみめ麗(うるわ)しく情も濃ゆいサラスヴァティーの身辺にはゴタゴタが絶えなかった。そんなこんなで、あるとき神ごみにウンザリしている幾柱かが誘い合って船をあつらえ、生まれ育った国を捨てたのである。
 ところが、神も仏もいない辺境の地であろうと胸をときめかせて瀬戸内の浜辺に上がったところ、案外のことに神仏だらけであった。(中略)
 そこで、売れぬ神々が七柱集まって「七福神」なる講を結成した。その中にあって、紅一点のサラスヴァティーは花形であった。何となく、一人でほかの六人を食わしている気もしないではないが、ことの成り行き上、それはそれで仕方ないと思う。


「紅一点のサラスヴァティー」というのは、弁財天のことである。


日本の弁財天のお使いは蛇と決まっているが、この物語ではインド神話に則ってクジャクをしたがえている。


弁財天とクジャクの会話も笑ってしまったので、引用させてもらう。

「孔雀よ孔雀、世界で一番美しいのは、だあれ?」
 琵琶を爪弾きながら、サラスヴァティーは唄うように訊ねた。
 背中に乗せた主人を振り返って、孔雀が即座に答えた。
「それは申し上げるまでもありますまい。弁天様は世界一お美しく――」
サラスヴァティーとお呼び」
「あ、これはご無礼を。サラスヴァティー様が世界一にござりますとも」
 物を考えるふうもなく、とっさの返答が疑わしい。孔雀の鸚鵡(おうむ)返しである。そんなおべんちゃらを信じるものか、とサラスヴァティーは意固地になった。


全編この調子で、読みおわるのがもったいなかった。


舞台は江戸時代末期だが、浅田次郎は、昔むかしの出来事ではなく、現代につながっている少し前の日本の物語として読んでほしいらしく、「いまの企業小説と置き換えてもらって、何の問題もありません」と著者インタビューで語っている。


笑って読みおわると、仕事のヒントが頭に浮かんでくる、……かもしれない(笑)