君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい


著者:浅田 次郎  出版社:文藝春秋  2011年12月刊  \1,470(税込)  277P


君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい    ご購入は、こちらから


鉄道員』(ぽっぽや)、『壬生義士伝』、『中原の虹』等で知られる小説家浅田次郎氏の最新エッセイ集である。


単行本未収録のエッセイを集めたもので、旅の感想や飼い猫についての「つまらぬ私事」も含まれているが、父母や祖父母の思い出、小説家になるまでの修業時代の話、小説家となってからの日常など、浅田作品の源流をたどる内容のものが多い。


「君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい」というタイトルは、小学校の同窓会に出席したときの話題に出てくる、担任の先生の発言を引用したものである。


小学生の浅田氏は、やんちゃでいたずらで、学級の問題児だったそうだ。そんな浅田少年に、恩師は微笑みながら、

君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい

と言ってくれた。
けっして叱られたのではなく、もちろん説教でもない。


浅田氏が小説家を志すのは中学・高校時代のことなのだが、教え子の将来を見とおしていたような一言は、いまでも浅田氏の心にはっきりと残っている。


このほか、本書には、浅田氏がどのようにして小説家になったかを示すエピソードがたくさん収められている。



浅田氏が9歳のとき、父が事業に失敗し、両親は離婚した。経済的に余裕がなくなったことを承知のうえで、浅田氏は私学への進学を母に懇願し、無理を言って中高一貫教育駒場東邦に入学させてもらう。


この学校のブラスバンド部で出会った先輩が、浅田氏を文学に導く。尊敬する先輩の読書量に追いつこうとして、浅田氏は図書館の本を片っ端から読み倒した。


文学の扉をあけてくれた先輩は、浅田氏が中学三年生の夏休みに、突然水死してしまう。
亡くなる前に先輩と交わしたひと言は、いつまでも心に残った。先輩が示してくれた文学への情熱は、浅田氏の心に熾火のように燃えつづけ、デビューまで30年近くの修業時代を支えてくれたという。


いまは売れっ子作家の浅田氏だが、小説家としてやっていけるようになるまでには長い長い雌伏の時代があった。


特に思い出深い作品として本書に登場するのが『プリズンホテル』である。


初めての小説単行本の出版を機に、大手出版社から次作を要望された。
おりしも、浅田氏が経営する婦人服販売会社は好調で、社長として多忙をきわめていた。
従業員や取引先から、「そういう道楽はたいがいにして、商売に身を入れなさい」と言われてしまったが、売れない小説を書き続けてきた浅田氏にとって、またとないチャンスである。


周りに反対された浅田氏は、婦人服の検品という理由をつけて倉庫にこもり、ひそかに『プリズンホテル』を書きはじめた。


あとで振り返ってみると、『プリズンホテル』全4巻は、作家としての基礎を作ったかけがえのない習作となった。


第1巻では、山奥の温泉ホテルという閉じられた空間で、2泊3日という限られた時間の中にドラマを盛りこまなければならなかった。
第2巻は、「1泊2日で団体客2組」と舞台設定を難しくし、初の週刊誌連載に挑戦した。
第3巻は、1週間で400枚の書き下ろし、という執筆条件自体が過酷だったし、第4巻は、他の締切りに追われながらも作品のクオリティを損なわない、という課題をクリアした。


浅田氏は、満足げにつぎのように振りかえる。

こう思えば、『プリズンホテル』は私にとってかけがえのない習作であったと言いきることができる。齢四十にしてようやくデヴューを果した私が、作家として生き残るためには、状況に応じた筋肉をつけるこの四巻の鍛錬がどうしても必要だった。


売れっ子作家となった今も、浅田氏は「修行僧のような生活」をしている。


作家にしては珍しく朝型の浅田氏は、夏は朝5時、冬でも6時には起床して書斎にこもる。朝食と昼食でそれぞれ10分程度は中断するが、あとはコーヒーとタバコでテンションを調整しながらひたすら書く。
午後2時から3時には、どんなに興が乗っていてもその日の執筆を終え、それから夕方まで読書に充てる。決して速読はせず、気に入った文章はところどころ音読しながら、毎日1冊は読み切る。

 かくして午後十時には床に就く。講演や取材等のために外出するとき以外は、判で捺したような毎日がくり返される。
 小説家といえば自由業の代表選手のように思われ、いかにも勝手気儘な生活をしている印象はあろうが、はたで考えるほど甘い仕事ではない。私は一滴も飲めぬ下戸であるが、正しくは小説家になりたいがために、酒を覚える間がなかったのである。


読者から見れば、浅田氏は圧倒的才能を持っているように見える。その才能に恵まれた浅田氏にして、「修行僧のような」努力を怠らないというのだから、小説家というのはどれだけ過酷な商売なのか。
「人に読んでもらえる書評家」を目指す私には、「よい子はマネをするんじゃないよ」というプロ作家の威嚇に聞こえてしまった。


しかし、この世界の過酷さを知ったからといって、私は諦めない。


浅田氏自身が言っているではないか。

「分相応」に暮らしながらも「齢相応」の夢を見なければ人間の未来はない。

と。


それに、浅田氏も年がら年中修行僧の生活を続けているわけではない。
「修行僧は週末になると行をやめて競馬場に向かう」、というのだ。


しかも、小説と同じく情熱をかたむけ、命を張るつもりでまじめにやってきた、というほどの入れ込みぶりだ。浅田氏にとっては文学の延長線に競馬があるのかもしれないが、ギャンブルに没頭する理由をくどくどしく説明する姿は、少し笑える。


プロ精神を説いて刃をぎらつかせるかと思えば、飼い猫の話題で脱力させ、ときに笑いもとる。
さすが、本業の小説でも泣かせたり笑わせたりさまざまな作風をもつ浅田次郎のエッセイ集である。