著者:垣根 涼介 出版社:KADOKAWA 2018年8月刊 \1,944(税込) 588P
「働きアリの法則」をご存知だろうか。
働きアリはみんながんばって食料を集めているように見えるが、よく観察してみると、よく働くアリが2割、ふつうに働くアリが6割、働いているフリをしていて本当はサボっているアリが2割いる、という法則である。
北海道大学准教授の長谷川英祐氏が、自身の進化生物学研究内容を一般向けに解説した、『働かないアリに意義がある』(2010年 メディアファクトリー刊)を出版したことで知られるようになった。
この法則には続きがあり、よく働いている2割のアリを間引いてみると、残ったアリの2割がよく働くアリに変わることが観察されている。その結果、全体の比率が、よく働くアリ2割、ふつうに働くアリ6割、サボるアリが2割と、もと通りの比率になってしまうというのだ。
おもしろい!
どうしてアリがこのような比率になってしまうのか不思議だ。
長谷川准教授は進化生物学の観点から研究して謎を解きあかしていくのだが、学者とは違う視点でこの法則に注目した作家がいた。
それが、今日取りあげる『信長の原理』の著者、垣根氏である。
人間界にあてはめると、ものすごく面白いことになる! と考えたのである。
垣根氏が選んだ舞台は戦国時代。
あの織田信長が「働きアリの法則」に気づいていたとしたら。
信長の成功と失敗が、この法則にこだわりすぎたせいだとしたら……、という仮説をたて、580ページ以上もある小説に仕立てた。
幼い頃の信長は、母の愛情に恵まれず、家臣たちからも冷たい視線を向けられて居心地の悪い思いをしていた。
城内にいても孤独だったので、城の外に出て、林をほっつき歩いたり、草むらに寝転がったりして時間を潰した。
腹が減れば握り飯や干物にかじりつくのだが、行儀が悪い信長は、食べ物をボロボロとこぼしてしまう。
しばらくすると、どこからともなくアリが寄ってきて、食べ物に群がって巣に運びはじめた。
暇に飽かしてアリの動きをながめていた信長は、ある時、ハッと気づいた。
エサを運ぶアリに交じって、いかにも働いているふりをして、仲間たちの後に付いて巣穴へと戻っていくだけのアリがいる。
懸命な二割。なんとなく働いている六割。明らかにやる気のない二割。
信長が2:6:2の法則に気づいた瞬間だった。
城に帰った信長は、使用人や小者の働きぶりをじっくりと観察してみた。
約半年間見続けた結論は、「こいつらも蟻と同じだ」ということだった。
元服して合戦を目にした時も同じだった。
武者たちの槍働きも、2割、6割、2割に分れていた。
だったら、全員が必死に働くように、徹底的に訓練すればいいでないか!
父の代からの譜代衆に厳しい訓練を強制することは出来ないので、自分の直属軍(馬廻衆)を作って、徹底して鍛え上げた。
しかし、簡単にはいかなかった。
いざ実戦になると、最初から懸命な2割、なんとか付いていこうとする6割、逃げ腰になる2割に別れてしまった。
それでも最強の軍団を目指し、信長は配下の武士に競争させた。
合戦が終わるごとに、逃げ腰だった馬廻衆は容赦なくクビにし、新しい兵を加えた。
鈍い指揮しか出来なかった組頭は一兵卒に降格し、逆に動きの良かった兵は組頭に格上げした。
一戦ごとに信長の直属軍は強さを増し、やっと成果が現れたように見えた。
しかし、思いがけないことが起こっていた。
兵たちの質が上がるごとに、昔からいる馬廻衆の動きが、次第に振るわなくなっていくという不思議な変化を目にした。最初は、以前よりさらに猛者が現れたので、古参の動きが新兵と比較して映えぬだけではないかと感じた。
だが、実際にはやはり違った。
信長は一戦ごとに、さらに目を凝らして古参兵たちの動きを観察した。
何度見ても、かつては鮮やかに槍働きをしていたというのに、自分たちよりさらに動きの良い者が現れると、何故か自らの動きの質を落としていく者がいる。
信長は納得できなかった。
しかし、この後、領地を増やし、木下藤吉郎や明智光秀などの優秀な家臣を増やしていくなかで、かつて優秀だった部将が、力を発揮しなくなって脱落していく。
なぜだ。なぜなのだ!
納得できない信長は、家臣の脱落を許そうとしない。
働きが悪くなった家臣に、心を入れ替えて死に物狂いで働くか、それとも隠遁するか、どちらかの二択を迫ったり、場合によっては追放したりした。
天下統一も目の前に迫ったとき、織田の家臣は、
北陸方面軍の柴田、
近畿方面軍の明智、
中国方面軍の羽柴、
関東方面軍の滝川、
東海道方面軍の徳川
という五部将体制になっていた。
2:6:2の法則から「家康という蟻が反旗を翻す」ことを予想した信長は、家康の勢力を押える方策を考えはじめる一方、他の家臣たちにも、ますます苛烈になっていく。
本能寺で謀反の企てを知ったとき、信長は愕然とする。
五部将のうちの裏切る蟻は、家康ではなく、光秀であったか――。
天の摂理に気づきながら、どうしても割り切れず、逆らい続けた信長は、ついに死を覚悟した。
「是非に及ばず」とつぶやいた信長の胸に、最後に去来したものは……。