無念は力


副題:伝説のルポライター児玉隆也の38年
著者:坂上 遼  出版社:情報センター出版局  2003年11月刊  \1,836(税込)  415P


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児玉隆也という伝説のルポライターの生涯を辿った評伝である。


児玉隆也」という名前を知っている人は少ないと思うので、本書の内容に入る前に、今日は長い前置きを書かせてもらう。


児玉隆也著『この三十年の日本人』(1975年7月新潮社刊)を手にしたのは、発刊から約2年後、僕が大学2年生の時だった。


この本を読むきっかけになったのは、学生時代の友人が勧めてくれたことだ。


大学に行かずに酒と本に浸かっていた彼は、この本の前にも『龍馬がゆく』を熱く勧めてくれた。彼の熱弁がなければ、僕は文庫で8巻もあるこの大著に手をつけることはなかっただろう。


その彼が、「小説もいいけど、ノンフィクションもおもしろいぞ」と教えてくれたのが『この三十年の日本人』だ。


太平洋戦争の終結から30年の節目にあたって発刊された本書には、学徒出陣の関係者に取材したルポ、
食糧難の時代を生きぬいた人びとのルポ、
皇室の行く末を考察したルポ等、さまざまな角度から日本人の生き方を考えさせるルポルタージュが収録されていた。


その中で、最も有名になったのが「寂しき越山会の女王」という作品である。


越山会」というのは、当時の田中角栄首相の政治団体の名前だ。


児玉氏は、1970年にこの越山会の金庫番である佐藤昭女史を記事にしようとしたことがあったが、当時自民党の幹事長だった田中角栄との直接会談を機に、取材続行を断念することになった。


その後田中角栄は首相になり、今太閤ともてはやされた時期を経て、その金権体質が批判されるようになる。


未曾有の金権選挙といわれた1974年夏の参議院選挙後に、雑誌「文藝春秋」は田中の金権体質の特集を企画し、1974年11月号に2人のライターの書いた記事を掲載した。


ひとつが、立花隆氏の書いた「田中角栄研究−その金脈と人脈」、もう一つが児玉隆也氏のルポ「淋しき越山会の女王」――児玉氏の4年越しのリベンジ作品である。


2つの記事をきっかけに、金権政治への批判が高まり、わずか2ヵ月後の12月9日、田中角栄は内閣を総辞職し、退陣することになる。


立花隆氏の「田中角栄研究」が田中角栄小佐野賢治錬金術を分析したのに対し、児玉氏の「淋しき越山会の女王」は、越山会の金庫番といわれながら、表に出ずに年間約20億円の政治資金を采配していた佐藤昭女史を話題の中心にすえたものだった。


彼女の幼少時代の不幸な生い立ちや、結婚に失敗して新橋のガード下のキャバレーのホステスをしていた経歴をあばき、一方で田中角栄の秘書になることによって急速に財産を増やし、権勢をふるう現在の姿を対比させる。


どうしてそこまで田中角栄に信頼されることになったのか、という疑問を提示したうえで、児玉氏は、次のように答えを暗示する。

実は私自身の記憶の中で、田中角栄の忘れられないことばがある。
(中略)
「財布は、身内の人間に握らせるに限る」
 二十億の政治献金の財布を握る佐藤昭は、彼にとってまさしく“身内”そのものなのだろう。身内は、血縁であったり、地縁であったり、もっと異なる次元を意味する場合もあるだろう。


不幸な生い立ちをもちながら、何億という財産と阿諛追従(あゆついしょう)に囲まれた現在の彼女の姿を描いたあとで、児玉氏は、それでも旧友たちが、

「昭ちゃんはかわいそうに」

と言っていることを示す。


田中角栄の秘書となったことにより人生を変えた佐藤昭の半生は、一見するとサクセスストーリーに見えないこともないが、それでも「彼女は不幸である」と児玉氏は裁断し、「彼女の不幸は田中角栄にも通じる」と続けた。


読者の情感に訴えたルポは、立花隆氏の理詰めのレポートと対比をなし、大きく世論を動かすことになる。



長い前書きになってしまった。


今日の一冊『無念は力』は、この児玉隆也氏の評伝である。


第一章「雪辱」は、彼の知名度を一気に押し上げた「淋しき越山会の女王」の取材過程を丹念に追っている。


雑誌「文藝春秋」の編集長の正式依頼を受けてから、締め切りまで約1ヵ月しか残されていなかったこと、
取材チームを組んで手分けして取材を進めたこと、
佐藤昭の最初の夫と2番目の夫の取材に成功したこと、
田中角栄の側近が協力者としてゲラのチェックをしてくれ、「ここまで詳細な取材を行っていれば、つけこまれる隙はどこにもないです」と保証してくれたこと。


極めつけは、佐藤昭と田中角栄は男女の仲であり、子供もいる、という証言を得たことまで明かしている。


取材を終えた児玉氏は、掲載原稿を書く際に、あえて田中と佐藤のプライベート部分(男女の仲であり、子供もいること)は書かないと決めた。


先輩から「知っていることをすべて書き出してしまうのは愚の骨頂だ」と学んだことを自分に言い聞かせながら、児玉氏は最終原稿を仕上げていく。


文藝春秋に掲載した原稿が、どれほど影響の大きいものだったかを示したあと、本書は第二章「貧困」で児玉氏の生い立ちに立ち戻ったあと、新米編集者の時代、女性誌編集者時代、フリーランスになってからのできごと、ガンが見つかってからの闘病生活、その後の早すぎる死、を時系列に追っていく。


児玉氏の作品は、インテリが国の行く末を論じる抽象的な内容とは程遠く、日々の暮らしに追われる庶民の哀感に訴えるものが多かった。


その作風の元をたどれば、児玉氏自身が貧乏な庶民の出だったことに行きつく。
早稲田の第二部(夜学)に入学した彼は、大学の学費も生活費も、自分で稼ぐしかなかった。


編集者になって、著名な作家たちと交流する機会を得た児玉氏は、自分が社会の底辺から抜け出したことを密かに安堵していたに違いない。


しかし、1970年11月25日、児玉氏は二つの大きな挫折に直面する。一つは、田中角栄との会談によって、佐藤昭の記事を断念させられたこと。もう一つは、三島由紀夫の突然の死だった。


編集者として、三島由紀夫と信頼関係を築いていたはずの児玉氏だったが、三島が自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入したことは、ニュースで知った。


三島由紀夫は、『サンデー毎日』次長とNHK社会部記者の2人だけに事前連絡していたが、児玉氏には知らせなかった。当時「女性週刊誌」記者だった彼は、「ジャーナリスト」よりも一段低く扱われたのだ。


二つの大きな挫折に直面した児玉氏だったが、この「無念」をバネにして記事を書き続けた。


フリーになったあと、「淋しき越山会の女王」を書くことで、田中角栄へのリベンジを果たすことができた、そのわずか2ヶ月後、彼の体がガンに冒されていることが発覚する。


半年に満たない闘病生活のあと、1975年5月22日に急逝した。


まだ38歳の早すぎる死だった。



余談になるが、本書『無念は力』を教えてくれたのは、本を通じて知り合った友人である。


お勧めの本の話題になったとき、「田中角栄の金権追求記事を書いたあと、早くに亡くなったライターを取材したルポが面白かった」と勧められた。


「それって、児玉隆也のことですか?」と質問したところ、
児玉隆也を知っているんですか!」と驚かれた。


亡くなって40年以上たち、児玉氏は「知る人ぞ知る」存在になってしまったのだ。


僕が児玉氏を知っていたことがよほど嬉しかったようで、その友人は2003年に出版された本書をプレゼントしてくれた。


『この三十年の日本人』も学生時代の友人に勧められたことを思うと、不思議な縁を感じる。


余談の余談だが、児玉隆也についての本を紹介してくれた新・旧の2人の友人には、ひとつだけ大きな違いがある。


学生時代の友人が大学に顔を出さずに酒と本に明け暮れていたのと対照的に、新しい友人は毎日大学に通っている。


――大学の教員として。