著者:日垣 隆 出版社:幻冬舎新書 2009年7月刊 \777(税込) 205P
昨年、書評ブロガーの小飼弾さんにお会いしたとき、日垣氏の本が話題になりました。
日垣氏の『学校がアホらしいキミへ』を小飼さんが激賞していたことに水を向けると、
「彼は、お金を出しても読みたいと思わせる、数少ない作家です」
と、またもベタ褒めしていました。(「数少ない」ではなく、「唯一の」だったかもしれません)
月刊『宝島』2008年12月号の小飼さんの連載「今月の踏んだクソ本」の記事中でも、
「およそ日本語で文章を書いてお金をもらう人は、彼を鑑とするべきでしょう」
と最上級の敬意を表しているのです。
今日の一冊は、日垣氏が報道機関のあり方について「じっくり考えてみた」一書です。
- 新聞の社説は、なぜあんなにつまらないのか
- そもそも、新聞は昔から偉そうな存在だったのか
- 名誉毀損裁判の高額化は本当に理不尽なのか
など、「ジャーナリズムの常識」とは違った視点で独自の見解を述べています。
現在の新聞には、週刊誌のようなスキャンダルは載せないという不文律がありますが、日垣氏によれば、新聞は最初から今のような高尚なメディアだったわけではありません。
島崎藤村が実の姪を妊娠させてしまった事件をネタに書いた『新生』を朝日新聞が新聞小説として連載したり、東京日日新聞(のちの毎日新聞)が事件当事者の藤村や姪への直撃インタビューを載せたり。
プライバシー侵害という配慮のない記事が、かつて紙面を飾っていたといいます。
今の新聞が高尚に見えるのは、新聞社が「サンデー毎日」や「週刊朝日」のような週刊誌を創刊して、情報を棲み分けるようになったから、というのが日垣氏の見解です。
読者の下世話な興味に訴える記事でも、社会的な意義のあるスクープでも、世の中に知られていない何らかの秘密をつきとめて公開する、という点では同じです。
当事者が秘密にしている内容を取材するのですから、話題になったニュースやルポ作品を書いた人は、それぞれ通常の取材やインタビューとは違った手法を使っています。
山崎朋子氏は『サンダカン八番娼館』の取材先で写真とパスポートを盗み出しましたし、佐木隆三氏は『復習するは我にあり』の取材先で見つけた警察の内部資料を無許可でコピーしました。
ともに大きな文学賞を取りベストセラーにもなりましたが、日垣氏は、「社会正義のためなら泥棒しても許されるのか」と疑問を呈しています。
社会正義を標榜する新聞社も、かつては警察署のロッカーに隠れて盗み聞きをするは、警察官の官舎の床下にもぐり込むは。とうとう盗聴器を仕掛けてクビになった記者まであらわれました。
一方で、新聞記者や週刊誌記者には誤報の誘い水となる情報が持ち込まれることがあり、うかうかしていられません。
週刊新潮が“ウソに引っかかった”とされている朝日新聞阪神支局襲撃事件の自称「犯人」の手記掲載事件はまだ記憶に新しいところですが、日垣氏によると、空想虚言癖のある人物が持ち込む「情報」は後を絶たず、「この世はウソの地雷原」といえるほどだそうです。
このほか、名誉毀損の損害賠償金の高騰はメディア自らが招いた状況だ、とか、「有料ジャーナリズムは終わっている」と悲観するには、まだ早い、など、相変わらず、人目を引くのが目的なのか、それとも本気なのか分からない、人を食ったような内容にあふれています。
世の中を斜に構えて見てしまう副作用がありますので、ご注意してお読みください。