忘れられた日本人


著者:宮本常一  出版社:岩波文庫  1984年5月刊  \735(税込)  334P


忘れられた日本人 (岩波文庫)    購入する際は、こちらから    単行本は、こちらから



読書ノート8月25日号で取りあげた『だれが「本」を殺すのか』を書いた佐野眞一氏が土曜朝5時から放送している「週間フジテレビ批評」に先日、ゲスト出演しました。
最近の書籍は内容が薄い。もっときちんとした調査や取材を基にした本を出すべきだ、と力説する佐野氏が「たとえば…」と挙げたのが本書です。
まだ、ルポライターになると考えたこともなかった13歳の佐野少年は、『忘れられた日本人』を読んで愕然とした、といいます。取材のために、これほどまでに人の話を徹底して聞いた人がいたこと、聞き出した内容が、文句なくおもしろかったこと。
佐野少年の驚きは、後年、佐野氏の取材姿勢を決めることになりました。後に佐野氏が著した『旅する巨人─宮本常一渋沢敬三』(1997年刊)は、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。


「内容が濃い」という佐野氏の一押し本です。
さっそく図書館に予約したのはいうまでもありません。


ルポライターの佐野氏が勧める本書は、いざ手に取ってみると、民俗学の研究者が書いたものでした。宮本氏は客観的なデータを整理・分析する従来の民俗学に疑問を呈し、庶民の生活を共感しながら聞くことを主張します。1960年に発刊された本書『忘れられた日本人』は、宮本氏の提唱する民俗学の実践結果だったのです。


全国を旅しながら古老の話を聞き取り調査しているうちに、宮本氏の興味や研究対象も変わっていきますが、本書を通してみると、西日本の人々が多く取り上げられています。これは、宮本氏の反骨精神のあらわれでもあるようです。
東京に首都が移転してから東京を中心に世の中を見ることが多くなり、東京に近い東日本が日本を代表しているように語られることに宮本氏が反発を覚えたからです。


本書には、明治から昭和のはじめにかけての農村の庶民が登場し、生い立ちや習俗を語っています。


全会一致まで何日でも話し合いを続ける寄り合い、農耕具の進歩と生産量の向上、世間を知るための娘の一人旅、年に一度だれとでも寝てもよい(セックスしてもよい)風習、字を知らないばかりに損をさせられた話、メシモライと呼ばれて船に乗せられる身よりのない子供、等々。まだ50年もたっていな時代の聞き書きなのに、聞いたこともない風習や生い立ちが飛び込んできます。


特に印象に残ったのは、文字通り橋の下に住んで物乞いで暮らしている老人の生涯を聞き書きした「土佐源氏」という章です。


「夜這い」によって妊娠し、未婚の母の元で生まれた男は、祖父と祖母に育てられました。子守奉公する女の子といっしょに遊びながら、男は性の手ほどきも受けます。15歳で祖父を亡くし、ばくろう(牛の売り買い業者)親方に奉公することになり、20歳で親方が亡くなるまで牛の目利き修行にはげみます。
女出入りの多い親方は、ほうぼうの後家(未亡人)と関係していましたので、親方のばくろう仕事の後を継ぐと同時に、後家との関係も継ぐことになりました。


その後カタギの商売をするようになり、妻と世帯を持ってささやかな幸せを味わったこともありましたが、役人の妻と浮気をしたことをきっかけに、またばくろうに戻り、女あそびをする生活が復活しました。


50歳のころ、報いを受けるように目が見えなくなったとき、昔の妻のところへ行ってみたところ、「とうとう戻ってきたか」と泣いて喜びます。
それから30年。
妻が農家にあまりものをもらいにいき、男は橋の下の掘っ立て小屋で一日中じっとすわっている、という生活を続けてきました。


男は、最後に次のように語りました。
  ああ、目の見えぬ30年は長うもあり、みじこうもあった。
  かまうた女のことを思い出してのう。どの女もみなやさしい
  ええ女じゃった。


聞き上手な宮本氏に促され、この「土佐源氏」のように、今まで誰にも話したことのない秘め事を打ち明ける人も出てきました。
宮本氏が聞き書きしなければ、知られることもなかった人々の物語です。
昔の本ですが、決して難しい表記をしているわけではありません。「あばく」「したがって」「都会で生活するような気らくさ」のように、漢字をつかわない表記が多く、読みやすい文章です。


ときには古典もいかがでしょうか。


本書の内容から離れますが、本書に触発されて、私は、もの書きとしての夢がふくらんできました。
他の人の書いた本を読んで書評を書きつづけていますが、私も物書きのはしくれですので、いずれは自分のオリジナル作品を書いてみたい、という夢があります。


本書を読んで、書いてみたい題材を二つ思い出しました。

一つは、人生経験ゆたかな友人のMさんの評伝です。


Mさんはことし84歳になります。50歳の私からみればが、敬して遠くから接するべきお歳なのですが、「友人」として交友させていただいています。


遊びにいくと、昼間でもかならずビールの栓を抜いてくれるくMさんは、サラリーマン時代、ビール会社の営業マンでした。
自分の受け持っている酒屋さんに少しでも多く自社製ビールを売ってもらうにはどうすればいいか。若き日の工夫を話してくれるMさんは、本当に楽しそうです。
直属の課長が後に社長になったそうですから、サラリーマンとして良いポジションにいたはずなのですが、Mさんは50歳で会社を辞め、今度は街の酒屋さんの店主になりました。
スナックやバーのマダムと取り引きするときの工夫や、取り引きしていたお店がつぶれて売掛金を踏み倒された思い出を語るMさんは、やはり楽しそうでした。サラリーマン時代と違い、自分で稼がなければ経営が成り立たないプレッシャーは強く、定休日なしで毎日働いていたようです。


いつも楽しそうに思い出を語ってくれるMさんですが、ある時、関東大震災が話題に上がったときに、一度だけしんみりと話してくれたのが、
  「僕の父親は、あの地震で死んだんだ。僕の生まれる前にね」
ということでした。


苦労したに違いない少年時代をおくびにも出さないMさん。魅力的なひとがらで、サラリーマンと自営業の思い出をたくさん持っているMさん。


こんな人の評伝を書いてみたい。
本になれば、きっと、本人やご家族にも喜んでもらえると思い、
  「Mさんも自伝を書きましょうよ。お手伝いしますよ」
と言ってみたのですが、「それはいいね、ワッハッハ」で終わってしまいました。


本人が乗り気にならないのに、勝手に本のタイトルは決めています。
  「泡とともに生きた男」

もう一つ書いてみたい題材は、私の父親です。


昭和3年に11人兄弟の10番目として札幌で生まれた父は、太平洋戦争中は戦闘機の整備をする兵隊だったそうです。戦争が終わって何か仕事を探さなければならなくなったとき、生まれ故郷の札幌から300キロも離れた奥地の開拓者募集に応じました。
開拓地の生活は厳しく、軍隊では上の階級だった人たちが脱落していくなか、私の父親は残りました。
そば、麦などの畑作も、牧羊、養豚、養鶏も失敗したあと、酪農でなんとか生活できるようになり、私がものごころついた時には、もう10頭以上の乳牛を飼っていました。


やがて、息子が跡を継がないことをきっかけにして酪農をやめ、こんどは農協に雇われて、やはり牛を飼う仕事を続けることになりました。(跡を継がない息子というのは、私のことです)


決して余裕のある生活ではありませんでしたが、新しもの好きの父は、「サイロのいらない牧草保存方法」とか「地面に掘った穴で牛を飼う」等のめずらしい話を聞きつけると、ためして見なければ気が済みません。
定年退職で農協を退職してからは、学校の用務員や農家の賃仕事をしながら社交ダンスクラブに参加したり、カラオケ教室の幹事をしたり、自分の好きなことに夢中です。


なかでも、かつて牛を飼っていた牧場に小型馬(ポニー)を飼い始めたときは驚きました。
なんで? と聞くと、「趣味と実益を兼ねて」といいます。ポニーの走る姿を楽しみながら、繁殖させて数が増えたら、売って利益を得る、というのです。
しかし、5頭が10頭になり、10頭が20頭になり、その後50頭になっても売る気配がありません。70頭になり80頭になり、100頭になってやって少し売りましたが、馬のエサ代が家計を圧迫しているのは間違いありません。


実益を兼ねているはずなのに、もらった年金を馬に注ぎ込んでいる状態ですが、息子の私から見ても、ものすごく楽しそうです。
きっと、読み応えのある評伝になるに違いありません。


どちらも、相手の話をよく聞いて構想を練る必要のある題材です。
本書『忘れられた日本人』読んで、「頭で考えていないで、まずは取材」と教えらたのですが……。


本ブログを読んでいただいている編集者の方、こんな題材が本になりそうでしたら、ご連絡いただけると嬉しいです。
よろしくお願い致します。