著者:緒方貞子/〔述〕 野林健/編 納家政嗣/編 出版社:岩波書店 2015年9月刊 \2,808(税込) 309P
1991年から10年間にわたり国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子氏の回顧録である。
緒方氏は、国連難民高等弁務官時代を自身でふりかえった本を過去に出版しているが、その後もアフガニスタンの復興支援にかかわったり、独立行政法人国際協力機構(JICA)の理事長や、国連「人間の安全保障」委員会の議長をつとめたり、責任ある立場で活動を続けた。
役職をはなれたあと仕事の内容をふり返っておきたいという思いはあったが、手をつけられずにいた、という。
全体を自身で俯瞰することを諦めかけていたところ、インタビューに答える形で回顧録をまとめてはどうか、と提案を受けた。
聞き手は、国連にかかわる前、日本の大学で研究者をしていたころの二人の教え子である。
生い立ちから現在に至るまでの緒方氏の事績を丹念に追い、質問を用意して聞き取りをする。
合計13回におよぶインタビュー記録に、自身で全面的に手を加えてできあがったのが本書『聞き書 緒方貞子回顧録』である。
さて、国連難民高等弁務官とはなんだろう。
国連難民高等弁務官とは、世界中の難民を保護する役目を負っている国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の責任者である。
UNHCRは、戦争で避難を余儀なくされたヨーロッパの人々を援助するために1950年12月作られた。
3年間で難民救済を完了して解散する、という楽観的な見通しの組織だったが、1956年にハンガリー革命が起って大量の難民が発生し、その後もアフリカ独立による多くの難民危機など、世界中に活動の舞台がひろがってしまった。
緒方氏が国連難民高等弁務官に就任してからも、クルド難民危機、ボスニア内戦、コソヴォ紛争、ルワンダ内戦など、地域紛争が発生しつづけ、緒方氏は対応に追われ続けた。
本書を読んで初めて知ったことだが、新しい紛争はUNHCRが経験したことのない新しい課題を突きつけてきて、そのたびに緒方氏は新しい対策を模索しなければならなかった。
緒方氏が就任したのは、アメリカがイラクに武力行使を行った結果、イラク北部でクルド難民が大量発生したときだった。
トルコが国内への難民受け入れに応じなかったため、クルド難民はイラク国境の内側とどまることになった。
そもそも「難民」というのは、国内にいると迫害を受ける恐れがあるため国から脱出した人を「難民」と定めていた。
国境を出ていないクルド人を保護するのは、UNHCRの任務ではないのではないか、ということが問題になった。
UNHCRオフィスの中でも意見の割れたこの問題に、緒方氏は
「難民の命を守るという原則に則って解釈すべきだろう」
と考えた。
いままで、国境を越えない難民の事例がなかっただけで、目の前に国境を超えない難民がいる。
保護を必要とする人を保護するのがUNHCRだ、という決断である。
このあとも、世界情勢は次々に新しい問題を緒方氏につきつけ、緒方氏は「状況に照らして現実的な判断」を下しつづけた。
難民キャンプの安全確保のため軍隊の力が必要となれば、軍隊に協力を要請する。
国連安保理事会が何も政治的アクションをとらなければ、出かけていって解決にむけて話し合いをするように要請する。
赤十字が撤退してしまったときには、医療についての援助にも手をつけ、本来なら開発援助機関が行うべき仕事(難民がもと居た場所に帰還したあとの支援活動)も行う。
ルワンダ難民の支援をしたときには、キャンプの治安維持のために、とうとう「ザイール保安隊」という組織をつくり、UNHCRから給料も支払ったという。
なぜそこまで難民の保護に力を尽くすことができるのか、との問いに、緒方氏は次のように答える。
制度や法よりも前に、まずは人間を大事にしないといけない。耐えられない状況に人間を放置しておくということに、どうして耐えられるのでしょうか。
(中略)
私は人間がひどい目に遭っているのをずいぶん見てきました。私が子どもの頃に経験した戦争もそうです。日本国内の空襲の被害をこの目で見ましたから。国連難民高等弁務官として目にした状況も本当に悲惨なものがありました。見てしまったからには、何かをしないとならないでしょう? したくなるでしょう? 理屈ではないのです。自分に何ができるのか。できることに限りはあるけれど、できることから始めよう。そう思ってずっと対応を試みてきました。
国連難民高等弁務官を辞めたあとも、緒方氏は「人間の安全保障」という考え方を世界に広めることに尽力し、日本に帰ってきてからもJICA(独立行政法人国際協力機構)の理事長として、現場主義の海外支援を行った。
外務大臣就任の要請を二度ことわったというから、地位に執着するような人ではない。
人としてやるべきことをするだけ、という姿勢に頭が下がる。
さて、回顧録といえば、生い立ちについて触れているものが多い。
しかし、チャップリンのように貧しい幼少時代を送った人の自伝は別として、りっぱな業績をもった人が恵まれた幼少時代を臆面もなく回想するのを読むのはたいくつなものだ。
自慢じゃないが、こちとらすじがね入りの庶民である。
「あーそうですか。そりゃよござんしたね」と、江戸っ子でもないのにべらんめえ調で憎まれ口をたたきたくなる。
だから、この本も「第1章 子どもの頃」という目次をみただけで頭の3分の1を読み飛ばし、緒方氏が国連にかかわりはじめた第5章から読みはじめた。
最後まで読み進み、緒方氏のハラの座り具合を知ったからには、生い立ちも知りたくなる。頭にもどって第1章から読みすすめた。
緒方さん、ゴメンナサイ。冒頭を読みとばした私をお許しください。
読んでみてわかっのは、たいくつな自慢話なんかじゃない、ということ。
緒方氏は自慢なんか必要ないほどの名家の出だった。
1927年9月、緒方氏は東京で生まれる。
「貞子」の名付け親である曾祖父は、あの犬養毅。1932年の五・一五事件で軍部に殺された、時の首相である。
祖父の芳澤謙吉氏は大正から昭和にかけて活躍した外交官で、犬養内閣では外務大臣を務めた。
父の中村豊一氏も外務省勤務で、緒方氏も3歳から8歳までアメリカで過ごし、その後中国への転勤に同行したあと、小学校4年生で先に帰国して私立女子校に入学した。
1951年に大学を卒業し、その年にアメリカ留学。日本帰国とアメリカ留学を繰り返しながら学者を目指す。
1960年に結婚した相手は日銀勤務の緒方四十郎という男で、政治家・緒方竹虎の息子である。
緒方竹虎はジャーナリストとして朝日新聞社主筆などを務めたあと政界に転じ、戦後、吉田茂内閣のナンバーツー(官房長官、副総理)を務めた。
吉田のあとを受けて自由党総裁になり、歴史の歯車しだいでは、総理大臣になったかもしれない人物である。
こんなに多くの外交官、政治家に囲まれ、戦争の悲惨さも自ら体験しながら緒方貞子は国際社会で活躍する人材に成長していったのだ。
「おみそれしやした」と納得するしかない。
もっと世界に出てもらいたい、と緒方氏が若者に望む言葉を最後に引用させていただく。
日本のみが孤立して暮らしていけることはありえません。国を開き、多様性をそなえ、高い能力を持って外との関係を築くこと、そして国際的な責務を果たすこと。これなくして、日本に明るい展望は望めません。そうした方針を積極的に打ち出し、果敢に行動すべきです。このまま孤島に閉じこもる道などありえないのです。