諜報の天才 杉原千畝


著者:白石 仁章  出版社:新潮社(新潮選書)  2011年2月刊  \1,155(税込)  213P


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1993年にスティーブン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』とう映画が公開された。(日本での公開は翌1994年)
ナチス・ドイツユダヤ人を虐殺しようとするなか、ドイツ人実業家のシンドラーが1000人以上のユダヤ人の命を救った史実を元にした作品である。


この作品に機を合わせたかのように、杉原幸子著『六千人の命のビザ[新版]』が1993年3月に出版された。杉原幸子氏の亡き夫である杉原千畝(すぎはら・ちうね)氏が、1940年8月にユダヤ教徒救出のためのビザを発給し、約六千人の命を救った記録である。


日本にもユダヤ人を救ったヒューマニストが居た、という驚きと感動は、当時の日本で静かなブームとなり、その後2005年10月に日本テレビで、「日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ」という題名でドラマ化されている。


本書は、ヒューマニストと知られる杉原千畝氏が、実はスゴ腕の外交官として天才的な諜報活動を行っていた、という一面に着目した研究書である。


杉原千畝は、1900年1月1日に岐阜県で生まれた。
千畝を医者にさせたい父親に反発し、家出同然で上京したあと、18歳の杉原青年は仕送りなしの苦学生活をはじめた。


語学を活かせる職業に就きたいと思っていた杉原氏は、19歳で外務省の留学生募集に応募し、みごと合格した。


希望したスペイン語枠が1名のみだったので、杉原氏は「仕方なく」ロシア語を選択したが、誕生したばかりのソ連と日本の間にはまだ国交が結ばれていなかった。ロシア語習得のために杉原氏は、中国東北部(当時の満州)のハルビンに向かう。ハルビンにはソ連政権を好まないロシア人が多数居住していたので、ロシア語を学びやすかったからだ。


1924年、杉原氏は正式に外務省の一員となり、ほぼ同時にロシア人女性と最初の結婚をする。


中国東北部に勤務しながらロシア人とのネットワークを築き、北満鉄道譲渡交渉で成果をあげた杉原氏だったが、1935年に日本に戻り、ロシア人女性とも協議離婚している。


翌年、幸子夫人と再婚し長男も誕生する。


次の任地として、在ソ連大使館への赴任が発令されたが、中国東北部での活動にソ連外務省が注目した結果、入国ビザの発給を拒否されてしまう。外交ルートを通じてソ連当局に何度も善処を求めたが、ソ連の態度は変わらず、ほぼ8カ月待機状態を続けた果てに、1937年8月、フィンランド公使館に赴任することが決まった。


そして1939年8月、運命の地、カウナスに赴任する。新設されたリトアニア領事館の領事代理に任命されたのだ。


ヨーロッパ情勢は緊迫していた。
独ソ不可侵条約が締結されたあと、ドイツはポーランドに侵攻。すぐにイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。


ドイツのあと、すぐにソ連ポーランドへ侵攻し、ポーランドはドイツとソ連に占領された。ドイツがオランダ、ベルギー、フランスに侵攻するなか、ソ連フィンランドを屈服させたあと、バルト三国の併合を進めていく。


1940年7月にリトアニアソ連に併合されたあと、各国の在外公館は閉鎖されることになり、日本の領事館も8月末までに閉鎖が決まった。


その在カウナス日本領事館を7月17日から避難民が囲みはじめた。ソ連に併合されてスリーリンに支配される前に、ここから逃げ出そうというユダヤ人たちである。
ナチスが反ユダヤ思想を掲げていたのはよく知られているが、実は帝政ロシアの時代からロシア・ソ連も反ユダヤ思想が強い国だったのだ。


杉原は3回にわたり日本の外務省本省にヴィザ発給の可否を問い合わせたそうだが、バルト三国併合関連のファイルが消失しており、現存する外務省記録を著者が調べた時には見あたらなかった。


その後の電報のやりとりから著者は、本省は外国人入国令の遵守を命じたのではないか、と推測する。行き先国の受け入れ許可を得ていて、旅費を充分持っていなければ、ヴィザは発行しないように、との指示である。


各国の在外公館が閉鎖されているなか、杉原がヴィザ発給しなければ、避難民たちは、やがて反ユダヤ思想の強いソ連支配下に入ることになる。それは死を意味するはずだ。


杉原氏は後に書いている。

全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅券書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわないとでもいうのか? それが果して国益に叶うことだというのか?


7月26日、杉原氏は本格的に多数のヴィザを発給しはじめる。


しかし、せっかくヴィザを発行しても、日本の外務省が、「杉原個人が命令を無視して発行したヴィザは認めない」となってしまっては何の意味もない。


杉原氏は、本省に電報を送る際、ヴィザ発給には一言もふれずにリトアニア情勢を報告したり、個別案件のヴィザ発行指示を仰いだりして時間を稼いだ。
大量のヴィザを発行しながら本省との交渉を続け、「本当にダメ」という指示が来るまでの間に発行したヴィザを有効にしよう、という作戦だったのである。


著者の白石氏は、杉原氏のこの行動を「杉原最大のアリバイ工作」と称賛している。
杉原氏はインテリジェンス・オフィサーとしての才能を駆使し、日本外務省に大量のヴィザを認めさせようとしたのである。


杉原氏の作戦は成功した。
彼の書いたヴィザは無効にされず、無事、日本への上陸を許可されたのである。


本省の指示を無視したのだから、本来ならば日本に召還されて何らかの処罰を受けても仕方なかったのだが、リトアニア領事館が閉鎖されたあとに杉原を待っていたのは、プラハでの総領事代理任命だった。


白石氏は言う。

杉原は何ら罰せられることはなかった。時代がインテリジェンス・オフィサー杉原の能力を必要としていたためである。


杉原氏は、この後、インテリジェンス・オフィサーの本領を発揮し、ドイツとソ連に関する重要な情報を本省に報告することになるのだが、著者が書名に「諜報の天才」と名付けたエピソードは、読んでのお楽しみとさせていただく。


読了してあらためて感じたのは、杉原氏が単なる人の良いヒューマニストではなかった、ということである。


諜報の天才だったから、ソ連の反ユダヤ思想がユダヤ人の命に及ぶものであることを理解していたし、単にヴィザを大量発行するだけでは、日本の外務省が無効にしてしまう可能性のあることも理解していた。
確信犯的に本省の指示を無視して大量のヴィザを発給するのみならず、「杉原最大のアリバイ工作」を行ったからこそ、ユダヤ人の命を救う結果になったのだ。


「諜報の天才」とは、杉原氏を悪人として糾弾するために付けた題名ではく、白石氏の最大限の讃辞であった。