宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死


著者:佐藤 竜一  出版社:集英社新書  2008年9月刊  \714(税込)  174P


宮澤賢治あるサラリーマンの生と死 (集英社新書 461F)    購入する際は、こちらから


童話作家、詩人として多くの人に愛されている宮澤賢治は、無名作家のまま亡くなりました。
生前に出版したのは、詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』の2冊だけで、しかも自費出版でした。作家として認められようとして原稿の売り込みも頑張りましたが、原稿料をもらえた実績は1回しかありません。


資産家の家に生まれ、お金に不自由しない生活を送っていた賢治は、経済的に恵まれていた教師生活を捨てて自らの理想に生きようとしました。
今ふうに言えば「モラトリアム青年」、当時で言えば「高等遊民」だった賢治は、亡くなる2年前に肥料や建築用壁材料のセールスマンとして、東北砕石工場の勤め人になりました。


本書は、体をこわして会社を辞めるまでの、わずか半年のサラリーマン生活に注目し、いままであまり知られていなかった賢治の実像に迫る評伝です。



宮澤賢治は1896年(明治29年)に岩手県に生まれました。


質屋と古着商を営む裕福な家庭のおかげで、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に進学し卒業しましたが、卒業後に土性研究を続けているうちに体を壊し、退学を余儀なくされます。
家業を継ぐのを嫌った賢治は、建材や大理石の売買を父親に提案し、後に人造宝石販売もさせてもらおうとしましたが、許してもらえませんでした。


一時は東京に家出し、心酔していた国柱会の影響で信仰心を童話で表現するようになります。家出していても平然と父からの送金を受ける賢治でしたが、およそ半年で帰郷し、25歳で農学校の教師になりました。
5年後に教師を辞めるまでの間に、2冊の本を自費出版したり、当時の有名雑誌に原稿を掲載してもらおうと売りこんだりもします。しかし、『赤い鳥』主催者の鈴木三重吉に評価してもらうことができず、職業作家への道は閉ざされました。


賢治は当時としては高額の給料を手にしていましたが、教師という仕事を「中ぶらりん」で「生ぬるい」と感じるようになり、とうとう辞めてしまいました。


ここで著者の佐藤氏は、賢治を次のように評しています。

  生活の安定に加え、精神面の安定も得たはずだったが、それが長く続
  かなかった。永久の未完成、この言葉こそ、賢治の軌跡にふさわしい。
  安定を望まないのだ。


教師を辞めたあと、農業指導に奔走したり、羅須地人協会という団体を設立し、劇や音楽による農村文化を創造しようとする運動を起します。


1929年(昭和4年)、病弱な自由人として生活する賢治の元へ、東北砕石工場の経営者が来訪し、土性研究のプロとしてのアドバイスを求めました。懇切丁寧な対応が縁となり、1931年(昭和6年)に賢治は技師兼セールスマンとして東北砕石工場に勤めることになりました。


サラリーマン宮澤賢治の誕生です。


農村を覆う酸性土壌を改良する炭酸石灰を売るのが仕事です。
あちらこちらに出張しては、商品のメリットを説明し、価格を交渉して成約に結びつける。農村のために良かれと思ってはじめた仕事も、会社として利益を出さないと従業員の生活にひびきます。注文を取ってこなければ工場の仕事がなくなるというプレッシャーを受け、賢治は北へ南へ奔走します。


時には出張旅費を自腹で払うなど、実社会で悪戦苦闘する賢治の姿を再現しながらも、佐藤氏は、次のように言っています。

  セールスマンとしての仕事はたいへんだったが、その仕事に賢治は生き
  がいをもって接した。おそらくは、童話や詩を書くのと同じような気持
  ちで。
   賢治のなかでは、童話や詩を書くことが崇高な仕事で、セールスマン
  としての仕事が一段低いというような意識は全くなかったはずである。


また佐藤氏は、自分の勤める会社が本書執筆中に民事再生法の適用を申請したことに言及し、現代のサラリーマンも決して安泰ではないことを示しています。


サラリーマンとして会社の存続のために身を粉にして働いたの日々は、お金に不自由することがなく夢想家だった賢治に、現実の世界の一端を見させたのかもしれません。


日々の生活に追われ、お金を稼ぐために悪戦苦闘している人々がいる。


有名な「雨ニモマケズ」で「ミンナニデクノボートヨバレ」と書いたのは、サラリーマンとしての最後の出張で倒れた直後のことでした。

  理想を抱き、現実に立ち向かっては、次々に打ち砕かれていく。
  そんな賢治の姿に、痛々しささえ覚える。


佐藤氏は賢治の晩年に思いを致したあと、次のように結論しています。

  だが、そんな賢治だからこそ、作品が人の心を打つのではないか。
  セールスマンとして闘った日々を追体験した私は、改めてそう思う。