ナグネ


副題:中国朝鮮族の友と日本
著者:最相 葉月  出版社:岩波書店(新書)  2015年3月刊  \842(税込)  214P


ナグネ――中国朝鮮族の友と日本 (岩波新書)    ご購入は、こちらから


駅のホームで偶然知り合った中国人女性との交友を描いたノンフィクションである。


著者の最相葉月氏は『絶対音感』、『星新一 一〇〇一話をつくった人』などの著作で知られるノンフィクションライターだ。
科学技術と人間の関係性、精神医療などを中心に取材活動を行っており、一般人のルポは手がけてこなかった。


本書の主人公も、作品にまとめるつもりで取材していたのではないが、交友
しているうちに書き残したくなったという。


1999年春、著者は駅のホームで電車の行き先を尋ねられた。
質問する若い女性のイントネーションから、すぐに外国人と分かった。


「同じ方向だから一緒に行きましょうか」とさそい、並んで座りながら車中で話を聞いてみると、ハルビン出身の中国人で19歳だという。
3か月前に日本に来たばかりだというのに、片言の日本語を話している。理由を聞いてみると、朝鮮族の中学に通っていた頃から日本語を勉強していたから、とのこと。


何か応援してあげたいと思いはじめたとき、ラーメン屋のアルバイトを探しているという話が出た。


「ラーメン屋さんは知らないけど、もしよかったらうちに来ますか?」と提案し、週に一度、資料整理をしてもらうようになったのが恩恵(ウネ)との交友のはじまりである。



恩恵(ウネ)は親族の期待を背負い、5百万円もかけて日本に送り出してもらった。


日本語学校に通いながら東京大学を目指して勉強をはじめたが、手持ちのお金はすぐになくなってしまい、アルバイトに追われるようになる。


就学ビザだと1週間に28時間のアルバイトを許されていたが、実際の彼女の労働時間は、もっともっと長かった。
4件のアルバイトを掛け持ちし、ひと月に40万円稼ぐこともあったが、8割を借金返済と実家への仕送りにあてた。


あっという間に1年が過ぎ、日本語学校の卒業が目前にせまった。


卒業すると就学ビザが切れて帰国しなければならないが、恩恵(ウネ)はこの先も日本で働きながら大学を目指したい。だが、まだ借金が残っているので、ひとまず専門学校に入って留学ビザを取りたい。
そのために、お金を貸してほしい。と最相は頼まれる。


このまま帰国させるのは気の毒だ、と思い、彼女の真剣さを信じて筆者は恩恵(ウネ)に100万円を無期限・無利息で貸した。



数か月過ぎたころ、専門学校の事務職員から電話がかかってきて、このところ恩恵(ウネ)が学校に来ていない、と言われる。


それとなく本人に聞いてみると、バイトのかけ持ちが忙しく、なかなか学校に行けない状態であることを報告してくれた。


留学のための借金とは別に、父親が博打でこしらえた借金もあるので、勉強に集中できない、とのこと。


大学受験できないまま留学ビザが切れそうになったとき、彼女は中国に進出しようとしている企業に就職し、会社に手続きしてもらって就労ビザに切りかえることにした。


著者もホッとした数か月後、こんどは「結婚しました」と報告に来た。
聞けば、出席日数不足で専門学校の卒業資格が得られなかった。卒業が前提条件の就労ビザがとれなくなり、日本人の配偶者になることで在留資格を得た、とのこと。


在留資格のために、偽装結婚を仲介するブローカーのカモにされているのではないか、と最相氏は心配する。


恩恵(ウネ)に内緒で夫の勤める中華料理店を訪ねてみるが、彼女の人生に立ち入ることにためらいを覚えた。

それぞれ自分の目標があり、そのために一生懸命働いている。それで十分ではないか。私はいったい何様なのだ。身元保証人になったぐらいでえらそうにするな。恩恵の人生をコントロールできると思うな。見境なく騒ぎ立てれば、この日までの恩恵の努力が水泡に帰する。もし彼女の行動に口を出すなら、そのために生じた責任は私が負わなければならない。その覚悟があるのかと問われれば、ひるむ気持ちが頭をもたげてくるのを否定できなかった。私は途端に自分の行動が恥ずかしくなり、それ以上、二人の関係に立ち入るまいと思った。


その後も恩恵(ウネ)は、転職を繰り返したり、ぬれぎぬを着せられて告訴されたり、離婚したりして最相氏を驚かせる。
くわしい事情を教えてもらうなかで、外国人が日本で暮らすことがどれほど大変なのかを最相氏は理解していく。


自分の実家に恩恵(ウネ)を連れていったりして関係を深めていくなか、最相氏は恩恵(ウネ)について書きたいと思った。


他人の人生に立ち入るまいと思っていたことを、次のように反省する。

わかり合うとは、互いの違いを知ることである。相違は相違として受け止め、相手の立場を尊重しながら手探りで歩み寄ることである。そんなわかったようなことをいいながら、では、私自身はどうなのか。目の前にいるたった一人の中国人のことすらよく知らない。いや、これまで知ろうとすらしなかったではないか。その無関心は、ふだん苦々しく思っている一部の人々の偏見や差別的言動と実は紙一重なのではないのか。


その後、ハルビンにある恩恵(ウネ)の実家を二人で訪れたり、韓国に住む親類を訪ねたりし、中国朝鮮族という民族の歴史を知る。


幼い頃からクリスチャンだった恩恵(ウネ)の心境を、最相氏は次のように書いている。

クリスチャンは旅人(ナグネ)だと恩恵はいう。自分の本当の家は天国にあり、この世は通過点にすぎない。だからこの世に未練はありませんという。


『ナグネ』は、中国朝鮮族の一人として中国、韓国、日本を行き来する恩恵(ウネ)の生き方を示した書名なのだ。


尚、本作では主人公も親類などの関係者もすべて仮名にしているそうだ。
本来なら、ノンフィクションではできるだけ仮名表記は避けるべきである。それでも仮名表記にしているのは、恩恵(ウネ)の実家が、中国では非公認のキリスト教会(地下教会)を営んでいるからだ。
中国政府によるキリスト教の弾圧が今も続いている状況を考慮し、家族の安全を最優先した配慮である。