サバイバル宗教論


著者:佐藤 優  出版社:文藝春秋(文春新書)  2014年2月刊  \864(税込)  270P


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ここのところ、佐藤優がマイブームになっている。


佐藤流コミュニケーション術を明かした『人たらしの流儀』と『人に強くなる極意』を読んでフムフムと感心し、西原理恵子との異業種マッチ『とりあたま帝国』をパラパラながめて、佐藤氏のチャンネルの多さに感嘆した。


ひと味ちがう切り口がおもしろかったので、こんどは、ちょっと堅い話題の本を手にとってみることにした。
佐藤氏の専門である宗教論を「サバイバル」という視点で語った講演集である。


今年は、第一次世界大戦の勃発からちょうど100年にあたる。
それまでの欧州文明は人間の理性を信頼してきたが、第一次世界大戦による大量虐殺と大量破壊を目の前にして、人間の合理性が疑わしくなった。


生存の危機を招くことが分かっていても戦争や環境破壊を続けてしまう人間社会でどのように生きていけばいいのか、という重たい問いに答えられるのは、もはや宗教しかない。
危機から人間を救い出すために宗教ができることを述べるのが、本書の目的である。


本書は、臨済宗相国寺派という流派の研修会で行われた4回の連続講義がもとになっている。講義の内容は、キリスト教を信奉する佐藤氏が仏教の専門家を前にして、キリスト教から見た危機の克服方法を述べたものだ。


佐藤氏の本の魅力は、常識をくつがえしてくれることだ。
いま当たりまえと思っていることと反対の考え方が、実はつい○百年前まで主流だった、とか、その道の権威と思われているあの人の発言が、実は中途半端な知識をもとにしているなど、本書にも小気味の良い常識やぶりがあちらこちらに出現する。


その最たるものが宗教のとらえ方だ。
一般に「宗教」というと、「仏教」、「キリスト教」、「イスラム教」のように、特定の教義をさすことが多いが、佐藤氏の「宗教」は、もっと幅が広い。
無宗教」も宗教だし、理性や科学を信じる心も宗教である。
慣習や社会規範として定着していること、みんなが当たりまえと思っていることも宗教の教義であり、別の時代、別の社会から見れば、決して常識ではない。


たとえば、「約束したことは守らなければならない」という道徳は、人類の歴史と同じくらい古い規範と思うかもしれないが、意外や意外、中世ヨーロッパでは必ずしも守る必要がなかったらしい。


ヤン・フスという15世紀の宗教改革者が火あぶりになったのも、法王が約束を守らなかったからだ。
激しく教会や法王を批判していたフスに手を焼いた教会は、会議を開いて意見を聞きたいから来てほしい、とフスを招いた。捕まって火あぶりになるのではないかと不審をいだくフスに対し、法王は安導券を出した。安導券というのは敵国の陣営の中に入っていく病院船とか支援物資を送る船に与えられるもので、安導券を持っている船は絶対に攻撃してはいけないという約束事がある。
しかし、法王は約束を守らなかった。安導券を信じて出かけたフスは、そのまま捕まって火あぶりにされてしまったという。


教会側の理屈は次のようなものだ。
「確かに捕まえないと約束はした。しかし、約束を守るとは約束しなかった」


ギリシャの古典劇にも「確かに口では誓ったが、心は誓いにとらわれておらぬ」という台詞が出てくる。われわれ日本人の感覚でも、約束よりも人情を重視することがあるから、「約束したことを守る」というローマ法の精神は、異国からきた宗教の教義と言ってよい。


さて、現在の世界情勢を考えるとき、民族問題は避けて通れない問題だ。
佐藤氏によれば、日本にも「沖縄」という民族問題が存在する。


佐藤氏の母が沖縄出身ということもあるのだろうが、佐藤氏は沖縄県民の心情をよく理解している。
普天間基地移設問題ひとつにしても、他の都道府県が受け入れないから辺野古に移転する、という説明に沖縄県人は納得しない。


そもそも、幕末まで歴史をさかのぼれば、徳川幕府がペリーと日米和親条約を結んだ1854年に、沖縄にあった琉球王国も琉米修好条約を結び、あくる年フランスと琉仏修好条約を、5年後にオランダと琉蘭修好条約を結んでいる。
琉球王国は国際条約の主体だったのだ。


「よく考えてみたら我々はもともと独立国だった」ということを沖縄県民が主張しはじめたら、三年ぐらいで分離独立が現実になってしまう、と佐藤氏は警告する。(沖縄の人々の幸せを考えると、沖縄は独立しないほうがいい、と佐藤氏は言っている)



民族問題を突きつめていくと、日本の中でも分離・独立問題が起こってくる。人々を分断するのではなく、結びつけていくために、目に見えない領域、宗教が重要になってくる。


宗教が重要になってくる根拠として、佐藤氏はモンテスキューの『法の精神』に書かれている民主主義の担保のしかたを示す。
モンテスキューといえば、司法、行政、立法の三権分立を説いた人、と教科書で学ぶが、実はモンテスキューは『法の精神』に三権分立の思想を書いてはいないそうだ。


モンテスキューが『法の精神』に書いたのは、民主主義の担保のしかただった。
モンテスキューは、個人の人権で民主主義は担保できない、と考えた。国家権力が民主主義や国民の権利を保全するはずはないから、国家権力と対峙したときに個人の人権は簡単にふきとばされてしまう。国家権力と対峙してでも民主主義を保全していく役割を担えるのは「中間団体」だ、とモンテスキューは言っている。


「中間団体」というのは、国家と個人の間にあるもので、自分のためにだけ働いているのでもなく、国家の代表でもない。当時でいえば、ギルドや教会のような組織や団体のことである。
自分たちの生きる糧は自分たちで作り出している、畑を持っていて自給できる、という自立性を持っているから、万が一、国家と対立することがあっても自分たちの助け合いのネットワークでやっていくことができるような組織。こういう組織がいくつもあることによって、国家権力に抑制がきき、民主主義は担保されていく。
宗教も、「中間団体」として、国家と対峙し、人々を結びつける重要な役割を担う存在だ、と佐藤氏は講演を聞いている仏教者たちに期待を寄せているのである。


質疑応答のなかで、「沖縄で今後、布教活動をする上で、どういうことに留意すればよいでしょうか」という質問にもていねいに答えている場面もあった。キリスト者の佐藤氏がここまで仏教者にエールを送っていいのかなぁ、と素朴な疑問もわいてくるが、「中間団体」の仲間として「お互いにがんばりましょう」と共闘を呼びかけているのだろう。


日本の国家財政の先行きを考えるとこれから宗教団体への課税が出てくるかもしれないが、「それに対しては、徹底抗戦しなければいけません」と佐藤氏は言う。宗教団体への課税の先には、ファシズムに向けた道が開かれるから、というのが理由である。


このほか、

  • 聖職者はなぜ独身なのか?
  • 国家が国民を教育するのはなぜか?
  • 高福祉国は警察国家
  • 官僚はどうやって食べているか?
  • 「きずな」はファシズム

など、興味深い話題がたくさん残っているが、内容紹介はここまでとさせていただく。


いままで当たりまえと思っていたこと、疑ってみたこともないことが、実はそれほど盤石ではないことに気づかせてくれる。
社会の見方を変えてくれる一書である。