高峰秀子の捨てられない荷物


著者:斎藤 明美  出版社:新潮文庫  2012年4月刊  \662(税込)  425P


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高峰秀子は昭和の大女優である。
1924年(大正13)年に北海道で生れ、5歳で子役としてデビューしたあと、「二十四の瞳」「浮雲」「名もなく貧しく美しく」など400本を超える映画に出演している。


おととし(2010年)の年末に86歳で亡くなったのだが、ことし3月に高峰秀子の「偲(しの)ぶ会」が行われたというニュースをテレビで見た直後に、書店で本書が目に入った。
僕は高峰秀子のファンではないけれど、本をパラパラとめくりながら、先月取りあげた沢木耕太郎著『ポーカー・フェース』にも高峰秀子が登場していたことを思い出した。


沢木耕太郎、テレビニュース、書店での遭遇という三つの出来事が揃ったことに小さな必然を感じる。「セレンディピティ」と言うとおおげさになってしまうが、ともかく僕も高峰秀子の評伝を追悼読書してみることにした。




高峰秀子は、生まれたときから養子縁組を組まれていた。
子どものいない叔母(父の妹)が、次に生まれる子どもを「男でも女でも、私に頂戴」と父に求めたのだ。


女の子が生まれたとき、叔母は、かつての自分の芸名と同じ「秀子」と命名し、そのあと何度も東京から函館にやってきては引き渡しを迫った。気の弱い父に代わって、母から叔母にキッパリと養子の話を断ったものの、当時の死の病である結核にかかり、母は死んでしまう。
父は妹の要求を拒みきれず、母の通夜の翌日、4歳の秀子は叔母に連れられて東京に向かった。


東京で暮らしはじめた秀子は、5歳のとき子役で映画デビューする。叔母の夫が見学に行った蒲田の撮影所で、たまたま映画『母』の子役オーディションをしていて選ばれたのだ。


子役として売れたおかげで、お金を生む機械となった秀子はふつうの生活が送れなくなる。撮影スケジュールに追われ、小学校へも行けない。


母親らしく接してくれていた義母(叔母)も、秀子の人気が高まり稼ぎが増えれば増えるほど、「母」を捨て「女帝」のように変貌する。
今の時代からみれば信じられないことだが、多くの親類縁者が秀子の金を目当てに集まってきて、西太后にもたとえられる義母は、秀子が稼ぎ出す莫大な金をばら撒き始めたという。


自ら望んで女優になったわけでもないのに、秀子はしがらみにがんじがらめになりながら、子役から人気女優に成長していく。


いつまで続くかも分からない義母との軋轢に悩んでいた秀子に、松山善三という救世主が表れた。映画界ではペーペーの助監督だというのに、大女優高峰秀子に交際を申し込んできたのだ。


自分の稼ぐ「金」に群がる人々を見てきた秀子が、松山善三をどのように見たか、著者の斎藤氏は次のように推しはかっている。

高峰にはわかっていたと思う、「この人なら、結婚してからも、互いの収入や生活レベルの違いに、決して卑屈にならず、ふんぞり返ることもなく、私の思いを真っ直ぐに受け止め、底意なく応答してくれる。そして、この人の前でなら、私も“素直”になれる」と。
 それだけで充分だったのだ。出自も収入も、細かい性格性癖も、他のことは彼女にとって、大げさでなく“どうでもいいこと”だったに違いない。


結婚して50年近くたっても、秀子は次のように述懐している。

かあちゃんは小さい時から働いて働いて……。だから、きっと神様が可哀相だと思って、とうちゃんみたいな人と逢わせてくれたんだね」


前半に義母との悲惨な葛藤が書かれているだけに、後半で明かされる夫へのお惚気(のろけ)は、こちらが赤面してしまうほどだ。


夫との安穏な生活を手に入れるため、秀子はある時から、自分が背負わされた荷物を順番に下ろしはじめた。


養母を看取り、親類縁者と縁を切り、女優という仕事を徐々にフェードアウトする。
著者の斎藤氏も感嘆するのは、一時は3人のお手伝いさんと運転手さんが住み込んでいた大きな家を壊し、3部屋だけの小さな家に建てかえたことだ。


こうして荷物を下ろし続けた秀子だったが、晩年になってひとつ荷物を増やしている。
あれほど“血縁”に痛い思いをしたはずなのに、本書の著者斎藤明美氏を2009年に養女にしたのだ。


本書の元になった同名の単行本は2001年に文藝春秋社から刊行されているが、すでに本文のなかで斎藤氏は高峰秀子を「かあちゃん」と、松山善三を「とうちゃん」と呼んでいる。


どうしてそこまで親しくなったかは本書をごらんいただくとして、8年後に戸籍上も養女となるくらいだから、本書執筆時点での秀子との親密さは、単なる取材者の域を超えている。


ところで、3月14日の当ブログで取りあげた沢木耕太郎著『ポーカー・フェース』に、高峰氏の死に触れた次のような一節があった。

 たぶん、悼むというのは「欠落」を意識することである。あの人を失ってしまった! と痛切な思いで意識すること、それが悼むということなのだ。
 だが、人はやがて忘れていく。なぜなら、忘れることなしに前に進むことはできないからだ。前に進むこと、つまり生きることは。
 人の死による「欠落」は永遠に埋めることはできないが、やがてその「欠落」を意識する人が誰もいなくなるときがやって来る。必ず、いつか。そのとき、死者は二度目に、そして本当に死ぬことになる。
 しかし、高峰さんならサバサバとこう言うかもしれない。「それでいいのよ。死んだ私なんかのことより、生きている人にはもっと大事なことがあるでしょ?」


さすが、女優業を早々と55歳で引退し、荷物を下ろし続けた高峰氏である。


しかし、もはや身内となった斎藤明美氏は、本書の他にも『高峰秀子の流儀』『高峰秀子 暮しの流儀』『高峰秀子との仕事〈1〉初めての原稿依頼』『高峰秀子との仕事〈2〉忘れられないインタビュー』などを次々と発刊し、世間が高峰氏を忘れないように励んでいる。


昭和を代表する女優の一代記には、女優本人の壮絶なドラマと、この世のものとは思えない強い夫婦愛があふれている。


高峰秀子を知らない人にこそ読んでもらいたい。

以下、余談ですが……


僕は高峰秀子のファンではないけれど、一度だけこの昭和の大女優と接近遭遇したことがある。
札幌で学生生活を送っていたころ、司馬遼太郎松山善三高峰秀子の豪華トリプル講演会に参加したからだ。


ただし、「参加」とはいっても、正規に入場券を手にして客席で聴いていたわけではない。
「講演会の整理役員をやってみないか。バイト料は出ないが、司馬遼太郎に会えるぞ」というオイシイ話に飛びついたのだ。


僕が担当したのは、会場で講師の話を聞くことができる「場内整理係」ではなく、残念なことに1階の案内係だった。参加者をエレベータに誘導し、「会場は5階です」と伝える役割である。


あとで知ったことだが、この会場では一般参加者も講演者も2台のエレベータのどちらかに乗らなければならない。お目当ての司馬遼太郎がエレベータに乗るところは確かに目撃したのだが、松山善三高峰秀子夫妻は見逃してしまった。


入場者も一段落したあと、役員控え室のモニターで講演を聴かせてもらった。
内容はほとんど忘れてしまったが、高峰秀子が出版したばかりの『いっぴきの虫』について語っていたことを覚えている。


二十歳そこそこの学生にとって高峰秀子は過去の人だったが、この講演会で興味を持ったのだろうか。翌年公開された木下惠介監督の「衝動殺人 息子よ」を映画館で見たし、しばらく後に「カルメン故郷へ帰る」も見せてもらった。(本書で知ったのだが、「衝動殺人 息子よ」は秀子の最後の出演作品である)


本書を読んだことで、僕もファンのはしくれになったようだ。