リクルートという奇跡


著者:藤原 和博  出版社:文春文庫  2005年9月刊  \540(税込)  263P


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学生時代にもどって、もし会社を選びなおすことができるなら、真剣に考えてみたい会社が2つある、と6月7日の読書ノートに書きました。
今日は、そのうちの1社、リクルートについて取り上げます。
この会社に興味を持ったのは、2月3日読書ノート松永真理著『iモード以前』を読んだからです。
どちらかというと怠け者だった松永さんに、仕事に夢中になる喜びを教え、「私はまんまとのせられたのである」と言わせたリクルート社の社風とはどんなものなのか。詳しく知りたいと思いました。
ちょうど江副浩正著の『リクルートのDNA―起業家精神とは何か』が目に止まりましたが、やはりこの人の書いたものを読む気にはなれません。裁判の決着がつき社会的制裁を十分に受けたとはいえ、贈賄という不正に手を染めた張本人なのですから。


代わりに選んだのが本書『リクルートという奇跡』です。著者の藤原和博さんは義務教育初の民間人校長として有名な方で、かつてはリクルート社のバリバリの本部長でした。
本書は、1977年(昭和52年)にアルバイト採用されてリクルートの社風に触れてから、翌年入社し2002年に会社を去るまでの藤原氏の会社生活を軸にして、この間に手掛けた仕事や人物の描写を通じてリクルートのエネルギーの秘密を明らかにする一書です。


ところどころ失敗談も書かれていますが、基本的に藤原氏は“デキル”社員です。
入社してすぐに「営業とは(相手先の)企業を変えること」という諸先輩の教えを受け、藤原氏自身も伝説の営業マンの一人となりました。ライバルの関氏と競いあった一時期は、後に「SF時代」と社内で語りぐさになったほどです。
3年後に新規事業担当になって、後のドル箱となる「カーセンサー」を企画したり、社長の側近である広報課長になったり。自身の華々しい活躍を、自慢もしなければ、謙遜もしない藤原氏の文章は痛快です。


この心地よさを象徴するのが、当時の江副社長の人事に対するちょっとした文句でした。
入社して7年目に、当時の大阪での課長職の他に、東京でも課長職を兼務する人事が発令され、藤原氏は大阪と東京をいったりきたりすることになりました。しかし、役員や部長職の兼務ならともかく、現場を抱える課長職の兼務には無理があります。
江副氏にこの人事異動の意図を尋ねると、東京の上司と大阪の上司が、どちらも藤原氏が必要だと主張するので、両方の顔を立てるために兼務にした、という答です。
  「神山さんも多田君も大事な人だから、両方顔を立てておかないと
   いけないんだよね」
という社長の言葉に、藤原氏は「迷惑な話である」と感想を書いています。


社長に直接「迷惑だ」と言ったかどうかは分かりませんが、少なくとも、ムッとした顔を見せたことは間違いないでしょう。社長に向かって「迷惑な話である」と言い放つことができる風通しの良さにも感心しますが、このひとことで、両方から奪いあいになった自分がいかに有能だったか、という自慢話が霞んでいます。
この人の「自分はデキル」は、もうあっけらかんとしていて、鼻に付く暇もありません。


そんな藤原氏リクルートを襲ったのが、1988年のリクルート事件と、1992年のダイエーによる買収です。どちらも関連会社(リクルートコスモス)に端を発する事件でしたが、特にダイエーに買収された時は、これでリクルートマンシップも終わりか、と社内に緊張が走りました。
このとき、ダイエーの影響力を最小限に止めようと立ち上がった“怒れる男達”が、藤原氏を含む20名の部次長たちでした。


リクルートマンシップが失われるなら、第二リクルートを創業することも辞さない!藤原氏たちが、ダイエーに叩きつけた「宣言文」は、ダイエーは事業に口を出すな!という「独立宣言」でした。


リクルートに息づく、誰もやらない事業をやっていることの誇りが納得できる一書でした。