ヘッセの読書術


2004年10月刊  著者:ヘルマン・ヘッセ著 フォルカー・ミヒェルス編
訳者:岡田 朝雄  出版社:草思社  価格:\1,890(税込)  238P


ヘッセの読書術


もう40年も前に亡くなったノーベル賞作家なのに、新刊が出ました。(ドイツ語の原著は1977年に出版されています)
「へー、いまどきヘッセなんだぁ」と思いましたが、新刊が出るということは、根強いヘッセファンがいるということなんでしょうか。
ヘッセが書いた小説は、思春期の少年が悩みながら成長していくというストーリーが多く、私も学生時代に夢中になって読みました。「ドイツ教養小説」という分類に入るらしい、というのを後になって知りましたが、主人公の成長過程を自分の将来に重ね合わせて考えるような読書は、中年になってしまうとなかなかできませんねぇ。


この本には、ヘッセが読書について折に触れて書いたエッセイが集められています。
ヘッセは「私は数万冊の本を読みました」という読書家で、ドイツ語に翻訳されている世界中の本を読んで、インドや東洋思想にも思いを馳せた人です。
表紙にはスーツ姿で本を開いたヘッセが眼鏡の奥からジロッとこちらを睨んでいる写真が載せられています。「ミーハーは読まなくて良い。真の教養人だけが手に取りなさい」と言っているようでなんだか近寄り難い印象を与えます。
世界文学を自分の書棚に並べるとしたら、どのようなものが良いか、ということを述べた「世界文学文庫」という一文には、ヘッセがなぜそれを選んだのかという短い文章をはさんで、延々と知らない本の名前が書き連ねてあります。いやはや、本当に近寄り難いです。
ヘッセの本棚への執着が強いのは、19世紀の文化だったのでしょうか。本棚は、その人の趣味・人格を表したものだから、たとえ庶民でも自分なりの蔵書を持つべきだと言っています。
10年くらい前に自宅の本棚に本を増やすことをやめ、最近はもっぱら図書館の本しか読まない私には耳の痛い話です。もちろん本書も図書館で借りましたので、私の本棚には残りません。ヘッセさん、ごめんなさい。


本書で知ったことですが、ヘッセは新聞を読みません。なぜ新聞を読まないかといえば、彼の感受性が豊かすぎて、一つひとつのニュースの背景や当事者の心情を考えてしまうからです。
たとえば、銃の暴発のため母を死なせてしまった若者が過失致死罪で百フランの罰金刑を受けた、という記事を読んだ時のこと。彼は考えます。もし故意だったら殺人者として裁かれて監獄に長いこと閉じ込められるだろう、未開人の国なら頭を切り落とされるだろう、と。また、法廷はどうやって命の値段を百フランと計算したのだろう、裁判官は公正な判決を下すのに非常な努力をしたことは間違いないが、自分の理性と法律の間で深刻な葛藤に陥ったであろう、と考えてしまうのです。ふつうの人ならば読み飛ばしてしまうような記事に対して、こんなにたくさんの想像をめぐらしていたのでは、きっと疲れてしまうに違いありません。


やはりヘッセは巨人だった、ということを改めて知った一書でした。