副題:こうして私は職業的な「死」を迎えた
著者:宮崎 伸治 出版社:三五館シンシャ 2020年12月刊 1,540円(税込) 246P
新聞に載っている出版広告でいつも目につく広告がある。
なんだかトホホな感じのイラストと、「ヨレヨレ日記」だの「ヘトヘト日記」だのトホホなタイトル。
最初に見たのは『交通誘導員ヨレヨレ日記』だったが、そのうち『派遣添乗員ヘトヘト日記』とか、『マンション管理員オロオロ日記』のような、テレワークとは縁のない職業の著者が続く。
なかには不思議なオノマトペが登場する『メーター検針員テゲテゲ日記』という題名もあり、「テゲテゲって何?」とツッコミたくなる。
よく売れたので、きっとシリーズ化したのだろう。
見ているうちに脳ミソに刷り込まれたに違いない。『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』の広告を見たとき、とうとう「ポチッとな」してしまった。
配達された本書を手にして、すぐに気づいた。
この本、いままでの「ヨレヨレ日記」や「ヘトヘト日記」と違うぞ! と。
何が違うのか?
■ 違うところ、その1
タイトルにオノマトペが入っていない。
■ 違うところ、その2
いままでの表紙が白地だったのに、今度の表紙は黄色地。これ、重要かも(笑)。
■ 違うところ、その3
いままでより、著者が若い。
「ヘトヘト日記」の著者が66歳で、他の著者が全員70歳超えているのに、『出版翻訳者なんてなるんじゃ日記』の著者はまだ50代。
■ 違うところ、その4
今までの著者の仕事現場が屋外か住み込みだったのに、今度の著者の仕事はデスクワーク。ずっと家にこもる仕事である。
以上4つの違いから見えてくるのは、いままで無名の著者にトホホな仕事について書いてもらったシリーズだったのが、ついに60冊も本を出している文筆家に書いてもらえることになった、ということだ。
しかも、著者の宮崎伸治氏は単に出版点数が多いだけでなく、あのベストセラー「7つの習慣」続編の翻訳者であり、次から次と仕事が舞い込む“売れっ子”翻訳者だったのだ。
そんな著者がなぜトホホ日記シリーズを書くことになったのか。
それは、出版社からひどい仕打ちをされたことがきっかけになり、今から8年前、出版業界から足を洗ったからだ。
本書には、宮崎氏が出版翻訳者として経験した「地獄」のいきさつが包み隠さず書かれていて、立派なトホホ日記に仕上がっている。また、「地獄」の苦しい話だけでなく、翻訳者をやってて良かった! という「天国」も描かれている。
いくつか並べてみよう。
- いきなり印税カット地獄
- 重版印税無限カット地獄
- 出版日ずるずる遅らされ地獄
- 出版間際での中止地獄
- きな臭さメール地獄
- ファンレター天国
- 平積みドッカン天国
- 次から次へと仕事が舞い込み天国
こんな地獄と天国を経験した宮崎氏だが、そもそも出版翻訳者になろうと思ったのは21歳のときだった。
なろうと思ったものの、翻訳者を公募している出版社などまずないし、合格すれば仕事につながるような検定試験もない。
考えた宮崎氏は、まず残業が少ないと評判の大学事務職員になった。
仕事のあとの時間を使って、翻訳の腕を磨くためである。
その後25歳で大学職員を辞めて英会話講師になり、27歳で企業内の産業翻訳スタッフにステップアップした。
仕事で英語を使うからには留学が必須であることを悟って、29歳でイギリスの大学院へ入学する。
充実したイギリス生活を送った著者は、帰国後、就職活動と並行して出版社に翻訳の売り込みを開始する。
売り込み用の原稿を何種類も用意してほうぼうの出版社に片っ端から電話、ファックス、手紙を出す。返事を待っているだけでなく、アポなしで編集部に突入を繰り返した結果、A書房が食いついてくれた。
その後、5ページにわたる紆余曲折を経て、はじめての本が出版されることになった。
こうして私の初めての翻訳書が世に出た。まさにひょんなことから翻訳書を出せることになったのであった。
発売初日に行ってみると10冊平積みにしてくれていた。すごい、私の名前が載った訳書が出ている。しかも10冊もだ。
(中略)
13年間も下積みに下積みを重ねて翻訳の実力を培ってきた私には、ひょんなことからこういういいことが生じるのだ。わっはっはっはっ、これでいいのだ。
「翻訳者になって良かった!」と思った瞬間だった。
このあとベストセラーにも恵まれ、「天国」の道を進んでいく宮崎氏だったが、良いことばかりは続かない。
「怒りとやるせなさで一睡もできないまま夜を明かしたことも幾度もあった」という恐ろしい「地獄」が、ジワッ、ジワッと迫ってくる。
ネタばれになるので詳しい事件の内容は省略するが、宮崎氏は本書の帯に登場する3番目以降の出版社との様々なトラブルに巻き込まれる。
ちなみに出版社の名前は伏せられていてA,B,C順に登場するのだが、完全に匿名ではない。
本文の脚注には、次のように出版社の特徴が書かれている。
D社
文京区にある、週刊誌、女性誌、文芸誌も発行する大手総合出版社
F舎
子会社を複数有する出版社。テレビなどにも出演する著名社長には複数の著書もある。
これじゃ、社名をバラしてるのと同じだよ~~!
これらの会社とのトラブルの果てに、宮崎氏は出版業界から足を洗った。
では、本書のタイトルのように「出版翻訳家なんてなるんじゃなかった」と後悔しているのだろうか?
本書の「あとがき」には、著者の真情が吐露されている。
今は英語と縁のない仕事に就いていることを明かしたあと、宮崎氏は次のように言い切る。
私がこういう境遇になったのは文筆家・翻訳家という生き延びるのが困難な職業を選んだことが一つの原因だが、その道を選んだのはほかでもない自分なのだからそれを後悔するわけはない。
今、自分の人生をふり返ってみれば、私は文筆家・翻訳者としてトラブルも多く経験したが、60冊近くの単行本を出版してきたし、自分が価値あると認めた本を翻訳しそのうち何冊かはベストセラーにもなった。そのこと自体、私が精一杯生きてきた証(あかし)だし、ちょっとやそっとでは他人が真似できないことをやったという自負もある。著書や翻訳書を出してきたことは、私の人生で燦然と輝く貴重な体験であり、それができたのであるから後悔などあろうはずがない。
おお! カッコいい!
イチローと同じ境地ではないか!
さすが、60冊も本を出している文章のプロだけあって、文章は読みやすいし、笑いのツボは心得ている。
シリーズ最高傑作と言っても過言ではない(他は読んでないけど……)。
出版翻訳者はもちろん、翻訳者でなくても運命の数奇さに興味がある人にも楽しんでもらえるはず、と著者もオススメしている。
ここはあなたも、「ポチッとな」してみよう!
以下、余談である。
本書に載っている著者と出版社のトラブルを読んでいて、僕が本を出したときのことを思い出した。
僕は2007年に、M社という小さな出版社から『泣いて 笑って ホッとして…』という題名の書評集を出版した。
出版するまでに多くの方にお世話になったので、出版記念セミナー・パーティーを開いた。
セミナーでは、僕より先に本を出した8人の著者に登壇いただき、初めて本を出した時の思い出と出版後の変化を語ってもらった。
ある著者は、出版社から提示された条件が「印税をお金ではなく現物で支払う」だった、という経験を語って笑いを取った。
自費出版よりもマシと出版契約を交わし、本を書き上げたあと段ボール4箱分の自著を受けとったという。
8人の著者に交じって、出版社の社長にも登壇いただいた。
僕の本の出版経緯を話してもらい、和やかに出版記念セミナー・パーティーは終わった。
数日して、出版社の社長から電話が来た。
「相談なのですが、先日の出版記念セミナーでお聞きした著者のように、印税を現物で支払うことはできないでしょうか?」
と言ってきた。
相談とはいっても、出版経費を削減する気持ちは固まっているようで、「全額とはいいません。半額分を現物で支払わせてください」と畳みかけてくる。
言葉には出さないが、「いいこと聞いちゃった♪」とルンルンしていることは間違いない。
出版契約にそんなことは書いていないので、契約違反である。しかし、実績のない著者としては、受け入れるしかなかった……。
今となっては、懐かしい思い出である。