暇と退屈の倫理学


著者:國分 功一郎  出版社:太田出版  2015年3月刊  \1,296(税込)  437P


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前回からのつづき)


さあ、いよいよ本論だ! と、張りきって読みはじめたぼくは、「あれっ?」と思った。
なんだか、前に読んだ気がするなぁ。


さっそく「暇と退屈の倫理学 浅沼ヒロシ」で検索してみたら、……あった。
4年半前に書評を書いているではないか。


やっちゃった! いちど読んだ本をまた買っちゃった。
書評まで書いていたというのに気づかなかった……。


くやしまぎれに言い訳すると、前回は暇つぶしに買った。(4年半前の書評には、「お正月に『暇と退屈』について考えてみるのも面白いかもしれない」と書いてある)
しかし、今回はちがう。


ぼくの人生のテーマのひとつ「人生に飽きない」についてちょっとマジメに考えてみようと思った。そのためにヒントになる本を見つけたら、たまたま前に暇つぶしに読んだ本だったのだ。


読みすすめるうちに思い出す内容が多いかもしれないが、「読んだことがある」からといって自分のものになっているとは限らない。今回はこの本をきっかけにして、自分でじっくり考えるのだ!

第一章 暇と退屈の原理論


この章では、すべての議論の出発点として、暇と退屈を考察した先哲のパスカルを取りあげている。


パスカルといえば、人間は考える葦である、という箴言が有名だ。この一節だけを読むとヒューマニスティックな思想家のように感じるかもしれないが、『パンセ』を読んでみると、パスカルは相当な皮肉屋で、世間をバカにしているところがあるそうだ。


人間は退屈に耐えられないから気晴らしをもとめる。しかも、単なる気晴らしと気づかずに、自分が追い求めるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言っている。


実例としてパスカルは「ウサギ狩り」をあげる。獲物にすぐに出会えるわけでもないのに、一日中、山を歩き回り、捕れれば喜び、捕れなければくやしがる。
しかし、もしウサギ狩りに行く人に、「これをあげるよ」とウサギを手渡したら喜んでもらえるだろうか。きっとイヤな顔をするに違いない。


そうなのだ。ウサギ狩りに行く人は、ウサギが欲しいのではない。気晴らしをしたいから、退屈から逃れたいから、たまたまウサギ狩りに熱中しているのだ。


人間はおろかなのだ。
だが、そのおろかさに気づいた人がいたとしても、その人が、「君はウサギを手に入れても、幸福にはならないよ」と指摘して喜んでいるとしたら、

「この人たちこそ、この連中のなかでもっともおろかな者である」

パスカルは先回りして指摘する。


確かにイヤな思想家だ。
そういえば、池田晶子氏も一般人を、見下すもの言いをする哲学者だった。
世の人が夢中になっていることを「どうでもいいこと」と切り捨て、自分の中にある「これ」について考えを巡らせることを至高の行為とみなしていた。


しかし、パスカル池田晶子のような「自分は下々の人間とは違っている」という態度には違和感を感じる。夢中になるハードルが高いか、低いかを基準にして人の行為をランク付けしてはいけないのではないか。


ぼくも、電車に乗っていて周りの人が夢中でスマホを操作している中で本を広げていると、「スマホばっかりやってるとバカになるぞ!」と悪態をついてみたくなることもある。
だが、自分の物差しで読書とスマホを比べて「自分のほうが高級な趣味を持っている」と考えるはまちがっている。


以前、たくさん本を読む先輩から、
「ぼくは本棚に本が増えていくとワクワクするんだけど、これって子どもがぬいぐるみを集めてワクワクしているのと、きっと同じなんだよね」
と言われたことを思い出す。


他の人と比べて高いだの低いだの言っていると、周りの評価ばかり気にするようになってしまい、そのうち楽しくなくなってしまう。高級だろうが低級だろうが、夢中にることが大切なんだと思う。


次回につづく)