著者:國分 功一郎 出版社:太田出版 2015年3月刊 \1,296(税込) 437P
(前回からのつづき)
第七章 暇と退屈の倫理学
ハイデッガーの退屈論を「批判的に検討」しおわった國分氏は、いよいよ本の題名と同じ「暇と退屈の倫理学」を展開する。
アレクサンドル・コジェーヴの「歴史の終わり」という議論を引き合いに出したり、ジル・ドゥルーズ[1925-1995]の「人間はめったに考えたりなどしない」という言葉を引用したり、ジークムント・フロイト[1856-1939]の説を紹介したりしながら論を展開していくのだが、議論の前提はハイデッガーの退屈の三形式である。
本書の第五章で、ハイデッガーが退屈の第一形式、第二形式、第三形式についての議論は本書のネタバレになると思い「読んでのお楽しみ」にさせていただいた。困ったことに第七章も第五章を前提に論を展開しているので、詳しく紹介することができない。
それどころか、もっと困ったことには……
結論
第八章にあたる「結論」の章で國分氏が述べている、暇と退屈についての國分氏の結論の一部をお伝えすることができない。
國分氏の一つ目の結論は、「あなたはこの本を読んだことによって、“暇と退屈の倫理学”の第一歩を歩みはじめたのだから、思い煩う必要はない」ということである。
そして、「結論だけ見るなよ!」と言わんばかりに、二つ目の結論を述べるまえに次のように宣言している。
以下、これまでに得られた成果をまとめ直し、〈暇と退屈の倫理学〉が向かう二つの方向性を結論として掲示する。ただし、それら二つの結論は、本書を通読するという過程を経てはじめて意味を持つ。
(中略)
以下の結論だけを読んだ読者は間違いなく幻滅するであろう。また同じ意味で、本書の結論だけを取り上げて、そこに論評や非難を浴びせることも無意味である。
「カンニングなんかするなよ、俺の講義にきちんと出席してたヤツだけに単位をやるぞ」
と言っているようにも聞こえるし、
「これを読んでくれれば、結果にコミットします」
と言っているようにも聞こえるが(笑)、ともかく國分氏は本気だ。
これ以上の紹介を禁じられてしまったので、以上で本書の紹介を終えることにする。
こんな中途はんぱな終わり方は初めてだが、こんなことになったのは、いつもの「読みおわってから書く」というスタイルを変えたからだ。
読みはじめると同時に書きはじめ、読み進みながら書いてみたら、あ〜らびっくり。前に読んでいたことが発覚し、最後の最後で「結論だけを読んだ読者は間違いなく幻滅するであろう」という恫喝に出会ってしまった。
書評としては失敗してしまったのかもしれない。
しかし、読書体験としては大成功だった。
「個人の感想です」とおことわりした上で、次回は、この本を読んで“良かった”と感じたことを書くことにする。
(次回につづく)