著者:國分 功一郎 出版社:太田出版 2015年3月刊 \1,296(税込) 437P
(前回からのつづき)
第五章 暇と退屈の哲学―そもそも退屈とは何か?
ぶ厚い本も、やっと半ばに達したところで、國分氏は宣言する。
本書では退屈論の最高峰に挑戦してみたい。
と。
退屈論の最高峰とは何か。
それは、マルティン・ハイデッガーの退屈論『形而上学の根本諸概念』である。
いよいよ本書のクライマックスにさしかかるところで、ぼくはハタと思い出した。
ぼくの書評は「ネタをバラさない」を原則にしていることを。
今回は、いつもの「読書ノート」とちがうスタイルで書いているが、「ネタバレ禁止」をやぶるわけにいかない。
クライマックスの“さわり”だけを紹介することにする。
ハイデッガー著『形而上学の根本諸概念』
の出発点はは「哲学とは何か?」という問いである。
この、哲学者にとって大きな問いに対し、ハイデッガーはノヴァーリスという18世紀ドイツロマン派の思想家の定義を引用する。
それは「哲学とはほんらい郷愁である」という定義である。
ハイデッガーが言いたいことは、次のようなことである。
ある哲学の概念についてどんなに多くの知識をもっていようとも、その概念について問うことで心を揺さぶられたり、心が捉えられるといった経験がないならば、その概念を理解したことにはならない。哲学の概念は人に訴えかける。その訴えかけを受け止めていないのなら、その概念を理解したことにはならない。こういうことである。
ハイデッガーの哲学にとって、こころが捉えられる、感動する、ということが大切なのだ。
ハイデッガーはとてもゆっくりと、一歩ずつ論理を組み立てていくタイプの哲学者だから、むしろ分かりやすい、と國分氏は言っている。
そのハイデッガーは、『形而上学の根本諸概念』のなかで「退屈」を2つに分け、くわしく考察したあと、さらにもう一つの「退屈」の姿を示す。それぞれ、退屈の第一形式、第二形式、第三形式とよび、わかりやすい例のおかげで「分かった」気にさせてくれるのだが、このクライマックスの内容は読んでのお楽しみとさせていただく。
ハイデッガーの言いたいことがおおよそ分かった気になったところで、國分氏は「最終的なハイデッガーの解決策はどうも腑に落ちない」と驚きの発言をする。
ええっ! “退屈論の最高峰”と称えたはずなのに、それでも「満足できない」と言うの?
そして、「この後はハイデッガーの退屈論を批判的に検討しつつ、結論へと向かっていきたい」と第6章に向かっていく。
(次回につづく)