著者:國分 功一郎 出版社:太田出版 2015年3月刊 \1,296(税込) 437P
(前回からのつづき)
第一章 暇と退屈の原理論(つづき)
パスカルは「人間は退屈に耐えられず、熱中できる気晴らしを求める。熱中できる気晴らしは、苦しみを含んでいる」と指摘した。この一面の真理は「退屈」を考える出発点を与えてくれる、と國分氏は評価している。
そのうえで3人の先輩哲学者の説を紹介しながら、「熱中できる気晴らし」とは何か、「熱中できれば良いのか」という問題を考察していく。
1人目はレオ・シュトラウス[1899-1973]。
ヨーロッパが先頭にたって理性、ヒューマニズム、民主主義、平和などの輝かしい理想をかかげていたにもかかわらず、第一次世界大戦が起こってしまった。
近代文明はまちがっているのではないか、との疑問が若者から起こってきたが、上の世代は「大切なものは大切なんだ」とくり返すだけで何も答えてくれなかった。
シュトラウスが1941年に行った講演を、著者は次のように紹介する。
若者たちは緊張のなかにある生だけが本来の生だと考えるようになっていた。言い換えれば、真剣な生だけが望ましい生である、と。彼らにとっての真剣な生とは、「緊急事態、深刻な極限的状況、決定的な瞬間、戦争といったものに絶えず直面している社会」において体験される生のことであった。
(中略)
彼らの心にあるのは、まさしくニーチェが――あるいはそれ以前にパスカルが――診断したあの欲望、苦しみたいという欲望である。
2人目はバートランド・ラッセル[1872-1970]。
食べることに不自由していないし、健康にも問題ない人たちが「日常的な不幸」に苦しんでいる、というのがラッセルの主張だ。
これを贅沢病と呼ぶ人もいるかもしれないが、原因が分からないだけに耐え難い苦しさを感じるというのだ。
この日常的な不幸から脱出するためには快楽ではなく興奮が必要だ。幸福とは熱意をもった生活を送れることなのだ、というラッセルの結論に國分氏は「待った!」をかける。
熱意さえあればいいのか。
外から与えられたミッションに何も考えずにしたがってもいいのか。
社会が停滞して、若者に不満が広がったら、「戦争」という興奮を与えればいいのか、と。
3人目はラース・スヴェンセン[1970-]。
途中を省略してスヴェンセンの結論を紹介すると、退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義のせいだ、としている。
スヴェンセンの著書に参考にすべき点は多い、と評価しながらも、國分氏は「退屈をロマン主義に還元する姿勢はとても支持し得ないし、彼の解決策にはまったく納得できない」と不採用を表明している。
自分の考えを深めるためには、まず先人の著作を読んで書かれている内容を吟味する、というのが学者のやり方なのだろう。
ちょっとまだるっこしい気もするが、新しい論を立てるからには誰かが言ったことと同じことをくり返すのは恥ずかしいこと、いや、やってはいけないことなのだ。
一般人の立場で読むと、要するに、
- 人間は退屈に耐えられず、熱中できる気晴らしを求める
- 熱中できる気晴らしは、苦しみを含んでいる
- ただし、熱中できれば何でも良いわけではない。不幸に憧れてはならない
ということだ。
すべて納得できる内容で、ここまでは「その通りだ」とぼくも思う。
(次回につづく)