暇と退屈の倫理学


著者:國分 功一郎  出版社:太田出版  2015年3月刊  \1,296(税込)  437P


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前回からのつづき)

第三章 暇と退屈の経済史


第三章で國分氏は、退屈と経済の関係について歴史をさかのぼってみる。


かつて「有閑階級」という階級があった。多額の財産をもっていてあくせく働く必要がなく、周りからも尊敬されていた。
暇であることが身分の高い証拠だったから、暇をみせびらかして生きていた。


19世紀末から有閑階級が凋落して一代で財をなすブルジョアジー(成り上がり)が誕生し、やがて20世紀の大衆社会がやってきた。
有閑階級のようにじょうずに暇を生きる術を知らないまま、暇を与えられた人間が大量に発生してしまったのだ。


どうやって暇をつぶしたら良いかわからない人々の欲求にこたえたのはレジャー産業だった。こうすれば楽しいですよ、暇がつぶせますよ、あなたが「したい」ことはこれですよ、と誘導する。人々の要求や欲望に応えているように勘違いするが、そうではない。人々の欲望そのものを作り出しているのがレジャー産業だ、という。


同じように20世紀の消費社会は、大衆のほしいものを産業が提供するのではなく、産業側が提供するものを「欲しい」と思わせて買わせるようになっている。

第四章 暇と退屈の疎外論


「突然だが」と前置きして國分氏は「浪費と消費」をくらべて論を展開しはじめる。
“浪費”は満足をもたらしてどこかでストップするのに対し、“消費”には限界はなく決して満足をもたらさない。

浪費と消費の違いは明確である。消費するとき、人は実際に目の前に出てきた物を受け取っているのではない。

と熱く語っているのだが、「浪費と消費の違いは明確である」と言われてもぼくにはちっとも明確に伝わってこないので、先を急ぐことにする。


さて、「疎外」とは何か。
國分氏は「人間が本来の姿を喪失した非人間的状態のことを指す」と定義する。


「疎外」は取りあつかいが難しい概念である。「何かちがう」、「このような状態は人間としておかしい」というところまでは良いが、「本来ならこうではない」、「そもそも人間とは……」と考えはじめるのは危険だ。


「本来」の姿はだれもが目指すべきものだから、「本来」の姿を目指すような強制が発生し、強制に従わないものは排除されてしまう。


ただし、「本来」とか「そもそも」が危ないからといって「疎外」という考え方まで排除してはいけない。


「そもそも」に立ちかえらずに、人間としておかしい状態(疎外)から解放されることを考える。それが「暇と退屈の倫理学」の目指す方向である。


次回につづく)