暇と退屈の倫理学


著者:國分 功一郎  出版社:太田出版  2015年3月刊  \1,296(税込)  437P


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前回からのつづき)

第二章 暇と退屈の系譜学


「人間はいつから退屈しているのか?」という副題を持つこの章では、人類学者の西田正規氏が提唱する「定住革命」にしたがって、人類が定住をはじめた約1万年前から退屈がはじまったのではないか、という説を唱えている。


定住生活を送っている現代人には、遊動生活には良いところはひとつもないように見えるかもしれないが、そうではない。遊動生活者はゴミがたまる心配も、トイレを設置して周りをきれいにする必要もなかった。


定住をするようになってからは、食料の貯蓄にともなって私有財産と経済格差が生まれ、権力者や犯罪者もあらわれるようになった。
「暇と退屈」をかんがえる時になにより重要なのは、定住によって人間は退屈するようになった、ということだ。


遊動生活では、移動のたびに新しい環境に適応しなければならず、五感をとぎすまして周りを探索していた。

新しいキャンプ地で人はその五感を研ぎ澄まし、周囲を探索する。どこで食べ物が獲得できるか? 水はどこにあるか? 危険な獣はいないか? 薪はどこでとればいいか? 河を渡るのはどこがいいか? 寝る場所はどこにするか?


ところが、定住するようになると、周りの景色はいつも同じ。感覚を刺激されなくなり、探索能力をつかう場面がなくなってしまった。
こうして能力の行き場がなくなった人類は、退屈するようになった、という説である。


仮説としてはおもしろい内容だが、残念ながら「そうだったのか!」と感動することはできなかった。


現代人は定住生活に慣れてしまって遊動生活時代の充実感を忘れてしまった、といわれればそのとおりなのかもしれないが、そのとおりでないかもしれない。もし正しいとしても、だからどうだというのだ。遊動生活にもどれ、とでも言うのか。


「オリンポスの神々が人間界にパンドラを送り込み、パンドラが持っている箱の中に『退屈』をしのばせておいた」と言われるのと同じ。「はー、そうですか。おもしろい物語ですねー」と畏れいるしかないではないか。


次回につづく)