駅路/最後の自画像


著者:向田邦子  出版社:新潮社 松本清張/著  2009年12月刊  \1,365(税込)  158P


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推理作家として多くの名作を残した松本清張と、テレビドラマの脚本家として一時代を築いた向田邦子の、ただ一度の共作を収めた一書である。



松本清張は、1909年(明治42年)に九州小倉に生まれた。
生活のために給仕から印刷工までいくつかの仕事を転々としたあと、1943年に朝日新聞九州支社の正社員となった。ただし、記者ではなく図案係としての採用である。
後に直木賞を受賞する「或る『小倉日記』伝」を『三田文学』に発表したのが1952年。42歳の文壇デビューであった。


1958年に『点と線』『眼の壁』がベストセラーになったあと、人気推理作家として作品を発表し続け、映画化、テレビドラマ化された回数は500回に迫り、生誕100周年を迎えた2009年以降も映画化、テレビドラマ化が続いている。
1992年、82歳で死去。


向田邦子は、1929年(昭和4年)東京生れ。
映画雑誌の編集者などを経て、脚本家となり、3千本を超えるシナリオを執筆した。『七人の孫』『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』等の、多くの人気名作ドラマの脚本のほか、エッセイにも定評があり、1980年に直木賞も受賞している。
1981年、台湾旅行中に航空機事故で急逝。享年51歳。


人気作家の二人が共作したのは、実は本作品だけである。松本は、吟味しながら多くの作品映画化、ドラマ化を許可したのに対し、向田が原作のある作品の脚本を嫌う作家だったからだ。


亡くなる前年、向田は次のように書いている。

  テレビドラマを書き始めて十年になるが、原則として、私は脚色
  を辞退する、という営業方針でやって来た。百歩ゆずって、原則
  にのっとって書く場合でも、物故作家に限る、と強情をはりつづ
  けた。女のくせに横着者で、ひと様の書いたものを丹念に読み、
  その意を適確に伝える作業に向かないと決めていたからである。


そんな向田は、既に大御所だった松本氏から「自由におやんなさい」と言われ、この作品に向かったという。
結果として、「向田さんはずいぶん大胆に脚色したな」という印象を与える作品に仕上がった。


細かい設定も結末も違う。そもそも、タイトルまでも原作の『駅路』から『最後の自画像』に変わっている。それでも清張はタイトル変更を「いいよ、わかったよ」と快諾し、役者としての出演依頼にも応じた。


撮影現場で清張が「これは深いところを突いているね」とつぶやいた言葉は、脚本全体をさしているに違いない、と近藤晋氏(元NHKプロデューサー)は指摘している。


では、まず松本清張作の約30ページの短編『駅路』のあらすじを見てみよう。
(ネタバレになってしまうので、ストーリーを知りたくない方は以降を読み飛ばし願う)


銀行の営業部長を勤め上げ、定年を迎えた男が行方不明になった。いつも2週間程度で一人旅から帰ってきていたのに、1ヶ月すぎても何の連絡も入らない。
家族から捜索願が出され、所轄書の刑事2人が事情聴取をはじめる。女性関係や夫婦の不和もないとのことだが、多額の現金を持ち出していたのが気にかかる。


年配の刑事は、行方不明になった男が単身赴任していたという広島に愛人がいると当たりをつけ、男が勤めていた銀行の広島支店で、動かぬ証拠を見つける。
しかし、愛人と目星をつけた女性を訪ねると、男が行方不明になる1ヶ月前に病気で死んでいたことが分った。


亡くなった女性とやり取りのあった東京在住の従妹を追究するなかで、男と多額の現金の行方が明らかになるのだが……。



周りからは堅物と思われていた男が、密かに愛人と会っていた。何の不満もなさそうに見える家庭を捨てて、愛人と二人きりで定年後の新しい生活をはじめようとしていた、との設定である。
小市民の哀しさを感じさせる松本清張らしい設定に、向田邦子は何を感じただろう。


この作品の脚色を担当する約10年前、向田邦子も妻子もちの男性と恋をしていた。また、向田の父も『駅路』の男と同じように、努力に努力を重ねて出世をはたした人物である。


また、脚本家として馬車馬のように作品を作りつづけてきた向田は、大病(乳ガン、血清肝炎)を経験したばかりだった。


仕事の終わり、人生の終焉を意識したことが、登場人物への思い入れを強くしたことは間違いない。
放映時間70分のドラマにするために、向田邦子松本清張の約2倍の分量を書き上げた。


清張を感心させた脚本の内容は……。