ドストエフスキーとの59の旅


著者:亀山 郁夫  出版社:日本経済新聞出版社  2010年6月刊  \1,995(税込)  286P


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やたら長い作品の多いロシア文学のなかでも、ドストエフスキーは長編が多い。


私も学生時代に、『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』をなんとか読了したが、社会人になってからは、とてもじゃないけどこんな長い小説と付き合うことができなくなった。新入社員研修の最中に『貧しき人々』を読んだあと、まったく手にしていない。


でも、なんだかスゴイことが書いてありそうな気がしたので、いつか読みかえしてみたいとは思っている。思ってはいるが、すぐに手をつけて読み通す気力と体力がない。
だれか「ドストエフスキーって面白いんだよー」と作品の魅力を教えてくれる人はいないか、背中を押してくれる人はいないのか、と思いつづけていたら、この本が目についた。


著者は、古典文学で異例のベストセラーとなった『カラマーゾフの兄弟』新訳を担当したロシア文学者である。これ以上の先達はほかにいないだろうと思い、ドストエフスキーとの魂の交流から生まれたエッセイ集を読んでみることにした。



著者の亀山郁夫氏は1949年栃木県生まれ。
本書のプロフィールでは、東京外国語大学ロシア語学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学したあと、2002年の大佛次郎賞受賞まで時間が飛んでいるのでよく分らないが、東京外国語大学の学長を務めているとのことなので、外国文学を専攻する学者、文学者として生きてきたようである。


日経新聞の日曜朝刊に連載していたエッセイで、「ドストエフスキーの世界に淫しすぎている」亀山氏は、ドストエフスキーへの思いを抱えながら、ほうぼうへ記憶の旅をする。
モスクワ、ザライスク(『罪と罰』主人公ラスコーリニコフの故郷)、東京、宇都宮、サンクトペテルブルク、広島、福岡、東京、パリ、プノンペン……と、世界をまわり、小学校時代から現在まで時空を超える。

   はるか遠い記憶の海に船出するたびに、過去は生きている、という
  思いを新たにする。だが、自分にかけがえのない記憶が、自分の脳の
  なかにしか存在しない、と考えると少し寂しくなる。どこか宇宙の奥
  にそうした記憶を預けることのできる宝石箱のようなものはないもの
  か、そんなロマンティックな空想にふけることがときどきある。いや、
  もしかするとその空想は、もはや空想ではなくなっているのかもしれ
  ない……。


一見、ロマンチックに見える著者の記憶の旅は、決して楽しくてウキウキする旅ではない。なにしろ、いつもドストエフスキーを心に同伴しての旅である。陰鬱で深刻にならざるを得ないのだ。


13歳夏に『罪と罰』との出会ったあと、亀山氏はドストエフスキーと自分との不思議なシンクロを何度も意識する。


たとえば、ドストエフスキーの『悪霊』が予言したとされる「連合赤軍事件」が、『悪霊』の執筆から百年後に起こったとき。「連合赤軍事件」の若者たちが最初にリンチ殺人を犯したのは、著者がドストエフスキーについての卒業論文を徹夜で書いていた日のことだった。


もうひとつ、亀山氏の『カラマーゾフの兄弟』翻訳を完成してみて気づいたこと。


カラマーゾフの兄弟』を完成したとき、ドストエフスキーは「書くのに三年、載せるのに二年」と編集者に書き送ったが、この小説を完成したあとわずか3ヶ月で世を去った。享年五十九歳だった。


カラマーゾフの兄弟』の翻訳を完成させた亀山氏は、「あとがき」に「翻訳に一年半! 出版にまる一年!」と書いた。期間を比べてみれば原作者の半分だったが、完成当時、著者の年齢は、数えで、ドストエフスキーの享年と同じ59歳になっていた。


原作者と翻訳者の何よりのシンクロは、「父殺し」である。


カラマーゾフの兄弟』は、カラマーゾフ家で起こった「父殺し」を中心にストーリーが展開する。この小説の背後には、ドストエフスキーの自伝的な意味が深く隠しこまれている、と亀山氏は分析する。


ドストエフスキーの父親は田舎で領主をしていたが、ドストエフスキーが故郷を離れた直後に領民たちに殺されるという事件が発生した。
領民に殺されるほど恨まれていた父の行状を知りながら、もしかすると父が殺される可能性を予感しながら田舎を離れたことは、父を見殺しにすることだった、自分は父親を殺したのだ、との思いはドストエフスキーを苦しめ、30年の時を経て長編小説の主題となったというのだ。


ドストエフスキーと同じく、亀山氏の無意識の底には「父殺し」が秘められている。
自分と「父殺し」の関連については、夢判断の逸話を紹介するに止めているが、深くドストエフスキーに惹かれる理由のひとつは、間違いなく「父殺し」の問題である。


亀山氏は、『罪と罰』のなかにさえ「父殺し」の要素を見いだし、

  また「父殺し」か、と思われる読者もおられようが、わたしは
  いまあらためてこの問題にふれざるをえない。

と断ったうえで、自分の「発見」の意味を語っている。


あの暗いドストエフスキーの世界と付きあいつづけるのだから、さぞや強靱な精神をもっているだろうと思って読みはじめたのだが、亀山氏は自分を「鬱」と呼び、まだ60歳にも満たないというのに、「人生がすでに終わっているという、奇妙な実感」などと嘆いている。


この人の後についていくと、そうとう陰鬱な読書になってしまいそうで、それはきっと、ドストエフスキーの陰鬱さを反映している。
好きこのんで付いていく世界ではないことを思い知らされたのだが、「いつか再読したい」という長年の思いをさてどうしたものか。


いっそのことこんな危ない世界に近づかなければ良いのだが、次のような一節を読むと、またドストエフスキーの引力を感じてしまう。


オペラ『カラマーゾフの兄弟』のパンフレットの言葉

  人間は三つの分類に分けることができる。
  一、『カラマーゾフの兄弟』をすでに読んでいる人間
  二、これから読もうという人間
  三、未来永劫、金輪際手に取ろうとしない人間


この言葉を引用したあと、亀山氏は次のように述懐する。

  この言葉にどれほどの普遍的な真理が書き込まれているか、わからな
  い。しかし『カラマーゾフの兄弟』を読むという体験に、これほどの
  重みを置いている人間がこの国のどこかにいるという思いにわたしは
  励まされた。するとなぜかふと、人生にもまだ可能性がある、という
  漠とした予感に包まれ、長い鬱のトンネルの出口に待っているほんと
  うのわたしの姿が見えてくるようだった。


これを読んで「これから読もうという人間」になってみようかな、と思った人は、まず亀山氏のエッセイで肩慣らしをすることをお勧めする。