大学のエスノグラフィティ


2005年4月刊  著者:船曳 建夫  出版社:有斐閣  \1,680(税込)  200P


大学のエスノグラフィティ


著者の専門である文化人類学では、ある集団や社会の全体を記述したものを「エスノグラフィ」と呼んでいます。本書は大学の「全体」を記述するのではなく、著者の視点から見たいくつかの断面を切り取っているだけ、という謙遜の意味を込めて、「グラフィティ」と混ぜ合わせた造語「エスノグラフィティ」をタイトルとしました。著者の友人の著作『ラテンアメリカエスノグラフィティ』から借用したとのこと。


著者が主催するゼミは希望者が多く、入りたくても入れない「待機学生」のリストがあるそうです。本書の第1章では、まず、この伝説の船曳ゼミをどのように主催し運用しているかを語ります。
大教室での講義と違い、ゼミには教師と学生が対面的に出会う関係に入りますから、良くも悪くも「全人教育」の要素が入ってしまいます。その人間臭さを極力排除する教授もいますが、著者は違います。ソクラテスの仲間たちをゼミに例えると、ソクラテスの「生」だけでなく「死」にも多くを学んだはず。そこにこそゼミのような教育の根幹がある、という立場です。
お互いに良い関係を結ぶためにも、著者は、ゼミ希望者に2度面接してから決める、という手順を踏みます。その面接での質問のしかた、学生を選ぶ視点、ゼミ幹事・師範代のあり方などの具体的手順を明かすと同時に、手加減を忘れて学生を泣かせてしまった苦い経験や、セクハラ、逆縁(年下の学生が教授や親より先に死んでしまうこと)など、深刻な問題も淡々と記述しています。


第2章「大学教授の1日と半生」では、文字通り、著者の典型的な1日の過ごしかたを示して、いかに雑用と闘いながら本来の「仕事」(研究のこと)をする時間をひねり出そうとしているかを明かします。また、学生から大学院、助手、講師などを経て、どのようにキョウジュとなるか、について出世魚に例えて、具体的な生態を示します。これから学問の世界で身を立てようとする人には常識なのでしょうが、なかなか面白いです。
興味深かったのは、大学教授の最大資質として著者が挙げているのが、「反撃的意思」と「情報収集力」ということです。
ものを考えるのが好き、というだけではダメ。ものを考えたなら、それを人に知らせたい、そのことについて誤った考えがあれば正したい、という攻撃性――穏やかに言えば積極性――が必須とのこと。そのためには、相手を論駁するだけの情報を収集し、準備し、組み立てる能力も欠かせません。
こういう、しつこいキャラクターでなければ、途中で挫折してしまうそうですので、良い子はマネをしないでおきましょう。


その他、教授会の実態を暴いた第3章「大学の快楽と憂鬱」、「研究と教育」「仕事と家庭」「個人と公人」のジレンマを示した第4章「大学人の二足のわらじ」が収められています。


ちょっとキャンパスの裏側を覗いて見る一書でした。
本書の出版社「有斐閣」という社名を最後に見たのは、学生時代です。本書は大学関係者向けだったのかもしれません。
久しぶりに読んだ“大学ギョーカイ”向けの本書には、最近興味を持って読んだ本とテーマが重なる部分がたくさんありました。


大学の「教養教育のあり方」は、村上陽一郎著『やりなおし教養講座』(6月17日のブログ参照)でも論じていました。
また、「研究」と「教育」の重点の置き方について、河地和子著『自信力が学生を変える』(7月25日のブログ参照)では、もっと教育に力を入れるよう訴えていました。船曳氏は学生に評判のゼミを主催しながらも、大学には研究からおちこぼれた人が教育に熱心に取り組めば良い、という風潮(船曳氏は「研究マッチョイズム」と命名)があって難しい問題だ、と歯切れの悪い言い方をしていました。
そういえば、本書の帯で推薦の言葉を書いている上野千鶴子氏も小倉千加子氏との共著『ザ・フェミニズム』(2004年12月20日のブログ参照)で、仕方なく大学教授をしているという意味の発言をしていました。(発言した文脈にもよりますから、どこまで本当か分りませんが)
今の私と全く関係のないギョーカイの話題なのに、なぜか興味が尽きないです。


本書を読んで連想したもう一冊の本は、北城恪太郎著『経営者、15歳に仕事を教える』(5月25日のブログ参照)です。15歳に語りかけるこの本を読んで、「自分が中学生の時に、こういう大人と出会いたかった」と思いました。同じく『大学のエスノグラフィティ』を読んで、「大学時代に船曳ゼミのようなところへ参加したかった」と、心の中で同じ繰り言をつぶやきました。
こういう感想は、あまり深追いしないでおきましょう。