ツバキ文具店


著者:小川 糸  出版社:幻冬舎  2016年4月刊  \1,512(税込)  269P


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木曜深夜にTBSで放送している『ゴロウ・デラックス』という番組をご存じだろうか。


「業界唯一無二のブックバラエティ」というキャッチフレーズの番組で、稲垣吾郎が本の著者をスタジオに呼んで、毎週1冊、ゲストの本の内容を紹介している。


ことし1月26日、作家の浅田次郎が出演した回の放送を見ていて、グッときた言葉があった。


浅田次郎は原稿を書くときにパソコンを使わず、専用の原稿用紙に手書きで原稿を書いている数少ない作家だ。
その浅田次郎が、なぜ手書きを続けているかと尋ねられたとき、

パソコンも覚えようとしたけど、エクスタシーを感じなかった

と答えた。


そうか。
手書きは気持ちがいいのか。


もうずいぶん長いこと文章を手書きしていないが、手書きで書いていたころは、たしかに心地よさを感じながら書いていた気がする。


でも、いまさら手書きにもどせないなぁ……、と思っていたとき、この『ツバキ文具店』という小説を手にとった。


先祖代々続いてきた代書屋(依頼人の代わりに手紙を書いたり、宛名を清書したりする仕事)の跡取り娘の物語である。


主人公は20代後半の独身女性で、名前は雨宮鳩子。
鎌倉の鶴岡八幡宮をもう少し山の方に入った鎌倉宮の近くで「ツバキ文具店」という小さな文房具店を営んでいる。


「鳩子」という名前は鶴岡八幡宮のハトに由来していて(鶴岡八幡宮の「八」の字は二羽の鳩でデザインされている)、みんなに「ポッポちゃん」と呼ばれている。


三年前に先代である祖母が亡くなったとき、店をたたむことも考えたが、そうなれば店の入り口に生えている大きな藪椿(やぶつばき)も切られてしまう。子どもの頃から好きだったこの木だけは守りたい、と文具店と代書屋を引き継ぐことにしたのだ。


店舗と住居をかねた古い日本家屋の一日は、ヤカンに水を入れてお湯を沸かすことからはじまる。


家中の床を箒ではいて、雑巾で水拭きし、文塚(ふみづか)に供えた水を取り替えて朝の仕事が終了する。


古都の片隅で、なんだか和服と割烹着が似合いそうな日常がゆっくりと流れていく。


最初の依頼人は、60代後半の鎌倉マダム。
着ているワンピースも日傘も水玉模様でコーディネートされているので、鳩子はひそかに「マダムカルピス」と呼ぶことにした。


砂田さんとこの権之助さんが今朝、亡くなったので、お悔やみ状を代書してもらいたい、という依頼である。


文章を考えるために、亡くなった権之助さんについて詳しく尋ねてみたところ、マダムカルピスが見せてくれた写真に写っていたのは、なんとお猿さんだった。
子どものいない砂田さん夫婦にとって、権之助さんは大切な家族だったらしい。


不祝儀(ぶしゅうぎ)の手紙には、決まり事が多い。


濃い墨を使わずに薄墨をつかうことは良く知られているが、その墨をするときはいつもと逆に左回りに磨らなければならないらしい。


ほかにも、文章のなかに「たびたび」「再び」「重ね重ね」などは忌み言葉なので使わない決まり。


追伸もつけないし、脇付も結語も書かなくてよい。……と、ここまで読んで、「脇付」と「結語」の意味を正確に分かっていないことに気づき、思わず辞書を調べてしまった。


何でもメールですませてしまう世代には想像もできないだろうなぁ、というお作法が当たり前のように登場してきて、心地いい。

 私は、静かに筆を持ち上げた。
 世界中の悲しみという悲しみを、瞬間、涙腺を磁石のようにして吸い集める。


家族を失った遺族の悲しみにそっとよりそうお悔やみ文が、見事な筆文字でつづられていく。


少し余談になるが、本書『ツバキ文具店』を原作にした同名のテレビドラマが、多部未華子主演で毎週金曜日の夜10時からNHKで放送されている。


4月14日の第1回放送でこのお悔やみ状が取り上げられていた。


ドラマの鳩子はまだ代書の初心者という設定なので、せっかく書いた手紙をボツにされてしまい、どう書いたらいいか悩んでしまった。


しかし、原作の鳩子はこのくらいの代書で困ったりはしない。


一気に書きあげたあと、駅の近くのワインバーへ向かい、独りで乾杯する。
いつもより違ったのは、少し早く酔いがまわったことくらいである。



そんな鳩子にも、スランプ状態に陥ってしまい、七転八倒を繰りかえす手紙があった。


お父さんに代わって、いま施設にいるお母さんへ送る手紙を代筆して欲しい、という注文である。


依頼人のお父さんは、もうとっくに亡くなっている。なのに、90歳を過ぎたお母さんは、手紙が届くはずだから家に帰りたいと言っているそうだ。


出張がちだったお父さんは、「愛するチーちゃんへ」ではじまるラブレターのような手紙を、いつもいつも送ってきていた。


いまも手紙を待ちつづけている母親をラクにしてあげたいので、天国の父親の代わりに手紙を書いてほしい、というのだ。


鳩子は困った。


愛する妻へ送る手紙の文面は、ほぼ出来上がったものの、どんな字で表現したらよいか分からない。


男文字で代書した経験はあるが、依頼人の父親は生きていれば90歳を超える。


文字というものは、年齢とともに老いていくものだから若い頃とは違う文字を使うべきだ。しかし、この年齢の男性がどのような文字を書くか、鳩子には想像がつかない。


依頼人の母親に喜んでもらえるような、美しく老いた文字とはどんな文字なのだろう。


書いても書いても、しっくり来ない状況がつづいた。


そんなある日、お隣に住んでいる「バーバラ婦人」が鎌倉の七福神めぐりに行こうと誘ってくれた。


ご近所の「男爵」さんと「パンティー」さんも一緒だという。


気の置けない人たちとのピクニックは、ポッポちゃんの屈託を取り除いてくれたらしい。


とちゅう雨で解散したあと、帰り道で立ち寄った近代美術館で、「それ」はやってきた。


展示品をひととおり見てまわった後、喫茶室でレモネードを飲み終わったとき。

 ささやかな兆候は、やがてはっきりとした胎動へと変化した。出なくて出なくてずっと苦しんでいたあれが、今、ここに来て突如、出口を求めている。
 書きたい。出してあげなきゃ。今すぐ、ここで。いきなり産気づいた気分だ。


喫茶室の店員に紙とボールペンを借りると、左手でラブレターを書きはじめ、一気に書き上げた。


依頼人に見せると、「これは紛れもなく、親父の字です」と言った。


依頼人の母様も、心から喜んでくれたそうで、それからは家に帰りたいとは言わなくなった。
安らかな最期を迎えるまで、手紙をお守りのようにして、ずっと胸元に抱きしめていたという。



消そうとして消せない先代との確執の記憶を縦軸に、季節の移り変わりとともに、さまざまな代筆の依頼人が訪れて物語を紡いでいく。


ひとつ一つの依頼人の事情に立ち入り、分け入り、依頼人の心情を分かち合いながら、多彩な文体と書体の手紙が綴られていく。


ひりひりしているのに、ほのぼのする。


不思議な糸川ワールドをご堪能あれ。

参考書評


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