戦場のエロイカ・シンフォニー


副題:私が体験した日米戦
著者:ドナルド・キーン 小池政行/聞き手  出版社:藤原書店  2011年8月刊  \1,575(税込)  208P


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日本文学を研究する米国人として有名なドナルド・キーン氏が、自身の第二次世界大戦従軍経験を語るインタビュー集である。


自分のことを「私は骨の髄からの平和主義者」というキーン氏は、若いころから戦争に反対だった。
太平洋戦争がはじまった時も、周りの人間が「日本を叩く時がやって来た」と興奮しているのに、最後まで戦争の回避を祈っていたという。しかし、海軍に日本語学校があると聞き、日本語を覚えたい一心で応募し、合格する。


海軍の将校となったキーン氏は、日本軍が戦場に残していった書類を翻訳したり、捕虜となった日本兵と話をする任務を帯びて、戦地に向かう。
終戦までの3年間、毎日、何らかの形で日本語に関わったキーン氏は、「軍人なのに反戦主義者」という矛盾した立ち位置でハワイ、アッツ島、沖縄などを転戦する。




立場上、拳銃を持たされたこともあったが、武器そのものを嫌っていたキーン氏は、一度も発砲せずに過ごした。
捕虜の尋問を行うときも、「戦艦大和や武蔵を見たことがあるか」などの型どおりの質問をしたあとは、「最近、どんな面白い小説を読んでいますか」とか、「どんな音楽が好きですか」など、楽しい話ばかりしていたという。


ときには、捕虜である日本兵から、「自分が生きていることに意味があるか。死んだ方が良くないか」という質問を受け、複雑な話になることもあった。
キーン氏は次のように答えたそうだ。


「日本の再建、新たな日本のためには是非あなたも必要とされている」と。


キーン氏には、戦争からの復興を果すのは、戦争で生き残った日本人自身である、との信念があったのだ。


人道的心情から発しているキーン氏の反戦思想は、戦争責任を鋭く追究する。


たとえば、勝ち目のない戦争に突入していった軍部の指導者たちの罪の重さを指摘する人は多い。キーン氏は、この他に日本軍の大きな罪として、捕虜になることを禁止したことを挙げる。


当時の陸軍大将であり首相でもあった東条英機がつくった戦陣訓の中に「生きて虜囚の辱めを受けず」という一節がある。
あたかも、日本民族の古くからの伝統のように兵隊に徹底されたが、実際には、キーン氏が「私はハワイ大学の図書館に出向き、過去の大戦を調べる中で、日露戦争において多くの日本人が捕虜になったと知りました」と言っているように、日本人もかつて捕虜になっていた。


「捕虜になることは恥辱」という考えは、明治時代になかったのだ。


戦況が不利になったとき、捕虜になることを禁じられれば、兵士は自ら死を選ぶしかない。玉砕が行われたアッツ島でキーン氏が目撃したのは、手榴弾を自分の胸に当てて絶命し、散乱した死体だった。


民間人に対しても、日本軍は捕虜になることを禁じるために、ウソを教えた。
アメリカ軍の捕虜になったら虐待される、
 女性は性的な陵辱を受ける、
 子供は殺される」と。


おかげで、サイパンでは「バイザイクリフ」と呼ばれる悲惨な自決が行われた。女たちが子供を抱き、「バンザイ」と言って崖の上から身を投げたのだ。
失われなくて済んだはずの命を、軍人のウソが奪ったといえる。


このようなやりきれない話だけでなく、本書にはホッとするような逸話も登場する。なかでも、書名にもなっている「戦場のエロイカ・シンフォニー」のエピソードは、映画のひとこまを見ているようなお話しだ。


ハワイで日本人捕虜の尋問をしたときのこと。何度も顔をあわせているうちに仲よくなった捕虜が「音楽が聴けないのは辛い」と訴えた。
どんな曲が好きかと訊ねると、ベートーヴェン交響曲第三番『英雄』が好きだ、という。


考えてみれば「捕虜に音楽を聴かせてはいけない」、と指示されていない。
さっそく蓄音機とレコードを用意し、音響の良いシャワー室でレコード・コンサートを開くことにした。


ホノルルの町で買った日本の流行歌のレコードは、集まった捕虜全員が知っていて、涙ぐむ者もいたそうだ。
日本のレコードが終わり、「これからは外国の長いクラシック音楽ですが、聴きたくない人は帰っても結構です」と言ったが、誰も帰らない。そのままベートーヴェンの第三を通して聴かせたときの様子を、戦争直後に書いたエッセイで、キーン氏は次のように書いている。

私たちを隔てるものは何もなかった。双方、他には何の共通項がなかろうとも、音楽が互いを結びつけていたのだ。あのシンフォニーは彼等にも私にも真摯に響いたのである。私たちの異なる出身背景にも拘らず、シャワー室のセメントやコンクリートにも拘らず。


この感動は、キーン氏だけのものではなかった。


出席していた捕虜の中に、高橋義樹という「同盟通信」の記者がいた。文学者伊藤整の弟子だった高橋氏は、戦後になってから、レコードを聴いた夜のことを書いた。


なぜ捕虜を尋問する米軍将校がベートーヴェンを聴かせたかのか。西洋的思想植え付けるためなのかもしれない、などと意図をいぶかったあと、ただ単にキーン氏や捕虜がそれを聴きたかっただけと結論づけた、素晴らしい短編が残されているとのこと。


何も政治的意図などなく、ただただ素晴らしい音楽を日本人捕虜と共有したかった。


キーン氏の日本への永住、帰化に到る一筋の道は、ここからはじまったのかもしれない。