暇と退屈の倫理学


著者:國分 功一郎  出版社:朝日出版社  2011年10月刊  \1,890(税込)  400P


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年末のあわただしさが一段落し、いつものようにエアポケットのように手持ちぶさたな正月を迎えた。


お正月には、不思議な時間が流れている。
仕事は休み。娘の学校も休み。
通常番組を放送しないテレビでは、ニュースを読むアナウンサーまでいつもと違っていて、なんだかよそよそしい。


正月から読書する気にもなれなかったが、2日に近くのショッピングセンターにでかけて書店をぶらついていたとき、本書が目についた。
「やるべきこと」がポツンと無くなったお正月に「暇と退屈」について考えてみるのも面白いかもしれない。


ことし最初に買った本は、暇と退屈について考察した分厚い哲学書である。




著者の國分功一郎氏は1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了の学術博士で、現在は高崎経済大学経済学部の准教授を務めている。デリダマルクスと息子たち』、ドゥルーズ『カントの批判哲学』などの翻訳を手掛けているほか、『スピノザの方法』も執筆している哲学畑の学者さんである。


國分氏は若いころから退屈の苦しさを感じてきたが、自分の苦しさについてじっくり考えることができなかった。


斜に構えてみたり、誰かのせいにしたり、やたらと周囲に食ってかかっていた時期もあったそうだ。しかし、哲学や思想を勉強するうちに、自分の悩みを考察の対象にすることができるようになった。
本書は、著者の國分氏が「退屈」について考え抜いた結果を、現段階の結論としてまとめたものである。



それにしても、書くに書いたり。本文だけで362ページもあり、注も36ページびっしり書いてある。
大学の先生らしく、スピノザの『エチカ』の引用にはじまり、バートランド・ラッセル、ジョン・ガルブレイス、カント、ハイデッガーなどが、次々と当たりまえのように登場してくる。


しかも、古今の先哲たちの言葉をうやうやしく拝聴するのではなく、

「これはこれですばらしい結論である。(中略)だが、やはり何かが足りない気がする」

と不満をもらしたり、

「これははたして現実的な解決策だろうか? そしてまた、望ましい解決策だろうか?」

と否定的見解を加えたりしながら、最後は自分が考え抜いた結論に達するまで根気よく論を組み立てていく。
ふつうの人が敬遠してしまう、ちょっとめんどくさそうな文献を引用しながらも、あくまで自分の心と頭で考えぬく。まさに「哲学」を実践しているのである。


國分氏は本書を「一息に通読されることを目指して」書いたということなので、長大ではあるが枝葉の少ない本書の内容をプロットしてみよう。



第一章「暇と退屈の原理論」では、すべての議論の出発点として、暇と退屈を考察した先哲のパスカルを取りあげる。


パスカルといえば、人間は考える葦である、という箴言が有名だ。この一節だけを読むとヒューマニスティックな思想家のように感じるかもしれないが、『パンセ』を読んでみると、パスカルは相当な皮肉屋で、世間をバカにしているところがあるそうだ。


人間は退屈に耐えられないから気晴らしをもとめる。しかも、単なる気晴らしと気づかずに、自分が追い求めるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言っている。


実例としてパスカルは「ウサギ狩り」をあげる。獲物にすぐに出会えるわけでもないのに、一日中、山を歩き回り、捕れれば喜び、捕れなければくやしがる。
しかし、もしウサギ狩りに行く人に、「これをあげるよ」とウサギを手渡したら喜んでもらえるだろうか。きっとイヤな顔をするに違いない。


そうなのだ。ウサギ狩りに行く人は、ウサギが欲しいのではない。気晴らしをしたいから、退屈から逃れたいから、たまたまウサギ狩りに熱中しているのだ。


人間はおろかなのだ。
だが、そのおろかさに気づいた人がいたとしても、その人が、「君はウサギを手に入れても、幸福にはならないよ」と指摘して喜んでいるとしたら、

「この人たちこそ、この連中のなかでもっともおろかな者である」

パスカルは先回りして指摘する。


確かにイヤな思想家だ。
しかし、パスカルが指摘した、「人間は退屈に耐えられず、熱中できる気晴らしを求める。熱中できる気晴らしは、苦しみを含んでいる」という一面の真理は、「退屈」を考える出発点を与えてくれる。


第二章では、人間はいつごろから退屈しているのだろう? と人類の歴史をふりかえる。
西田正規氏の考察に従い、人類が定住生活をはじめた約1万年前から、と國分氏は推測する。


移動しながら狩猟をしたころ、人間は持っている能力をフル活用して生活していた。しかし、いつも同じ景色を見て刺激のない生活を送っていると、人間の能力は行き場を失う。あり余る心理能力を発揮できる適度な負荷が必要になった結果、「退屈」が誕生した、というのだ。


このあと、「なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?」という有閑階級誕生の理由を示し、「浪費」と「消費」の違いを考察し、ハイデッガーの定義した「退屈の第一形式」「第二形式」「第三形式」を紹介しながら、國分氏の考察は結論に向かっていく。


そして……。
お待たせしました。
第7章のあと、337ページから、いよいよ「結論」という章がはじまる。


ここまで先哲の言葉を引用し、吟味しながら進めてきた國分氏が達した結論とは何だろう?


3つの結論をここで引用することは簡単だが、國分氏は、

結論は、本書を通読するという過程を経てはじめて意味をもつ。
論述を追っていく、つまり本を読むとは、その論述とのつき合い方をそれぞれの読者が発見していく過程である。

と、結論だけ読んでも意味がないことを強調している。


ウサギ狩りのたとえ話でいえば、野山を走りまわらずに獲物だけ手にしても嬉しくない、ということなのだろう。結論だけ斜め読みして、あーだこうだ言っていると、パスカルに「もっともおろかな者である」と両断されてしまうかもしれない。


書評でネタばらしをしない、という僕の方針とも一致しているので、今回も結論の引用は差しひかえることにする。
悪しからずご了承いただきたい。
先哲の引用文は小難しく見えたり、時にまわりくどく感じることもあったが、國分氏が自分の考察を語る文章は分かりやすかったことは、お伝えしておきたい。


さて、小椋佳の『夢追い人』というアルバムの中に「思い込み」という曲が2曲収録されている。
2曲目の「思い込み」(PART II)の最後に、本書の考察に通底する次のような歌詞があった。

  これがわたしの最後の唄と
  愛せる人に告げる日を
  待ちつぶすために 今日も唄づくり


時間をどう使うかという人生の選択肢の問題は、「退屈」、「暇つぶし」、「趣味」、「ライフワーク」などの側面に表れ、「生きがい」、「幸福」とつながっている。


本書を読みながら、「そういえば、僕は『“飽きること”が人生の大敵』と十代のころに考えてたなぁ……」と思い出したりもした。


國分氏の思考の過程を追いながら、自分の「生きがい」論を深めてみてはどうだろうか。