すごい読書!


副題:仕事力・マネー力・運気力がアップする
著者:中島 孝志  出版社:マガジンハウス  2009年7月刊  \1,365(税込)  218P


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また性懲りもなく読書法の本を手にした。


著者の中島氏は500冊以上の単行本をプロデュースし、自著を200冊書き、年間3000冊読む、と冒頭で自己紹介している。
本を作ることを仕事にしている立場から、仕事に役立ち、お金が儲かり、ひとまわり人間が大きくなる読書法を述べている、とのこと。


他の人がどんな読書の仕方をしているのか気にする人には、とても参考になる内容が多かったように思う。
ただ、ちょっと天の邪鬼な僕としては、中島氏の読書法をこの『すごい読書!』に当てはめた時のパラドックスを感じてしまう。


中島氏は次のように言う。

私が言いたいことは、読書に完璧を求めてはいけない。1冊の本にあれもこれも
要求してはいけない。1つか2つなにかつかめればそれで元は取れた、と考えて
欲しいのです。


中島氏の持論を『すごい読書!』に当てはめると、「この本で1つか2つ得るところがあれば満足すべき」ということになってしまう。そういう目で本書を読み返してみると、僕にとってそう目新しい読書法は書いておらず、得るところは少なかった。あれもこれも「ふ〜ん」と読み飛ばして終わってしまう内容に見えてしまう。結果的に、自分の書いた文章で自分の本の価値を貶めることになってしまうのは皮肉なことだ。


それでも一つだけ本書で目新しかったのは、「100冊の自己啓発書より1冊の山本周五郎」という第6章の主張だ。司馬遼太郎藤沢周平の全集を揃えているという中島氏は、「人間を勉強するには最高だ」「マネジメントにも使える」と、小説や評伝の効用を強調している。
最近ビジネス書に食傷気味の僕としては、「そうだ、その通り!」と叫びたくなったほどだ。


中島氏の取り上げた『雨あがる』、『町奉行日記』、『樅の木は残った』の内容紹介、小説から得た教訓の考察はすんなりと腑に落ちてくる。
ただ、最近、日経ビジネスオンラインに山本周五郎の書評を書いたばかりの僕としては、周五郎の『さぶ』の要約と引用の不正確さが気になって仕方なかった。周五郎の苦心の労作を、あまりに単純化しているように見えるのだ。


中島氏の『さぶ』のストーリー要約の後半部は、次のように書かれている。

 ある日、栄二に事件が起きます。両替商の錦文で仕事をしていると、100両もする「金襴のきれ」がなくなり、それが栄二の仕事箱に入っていたのです。どんなに抗弁しても、主人には聞き入れてもらえず、栄二は石川島の人足寄場に送られてしまいます。
 そうとも知らないさぶは、栄二の居場所を探そうと主人や得意先から嫌われて暇を出されてしまいます。
 ようやく居場所を突き止めても、栄二はさぶに会おうとしません。許嫁のおすえには「ここを出たら復讐してやる」「俺のことは諦めてくれ」の一点張り。人足寄場でも栄二は名前を明かさず喧嘩の日々。恨み辛みに凝り固まって自暴自棄の毎日。「俺をはめたのはあついに違いない」と、さぶを疑う始末でした。
 寄場は社会からドロップアウトした人間ばかりが集まった掃きだめでした。この救いようのない男たちの中で栄二は人が変わります。「寄場での足かけ3年はシャバの10年よりも役に立った」……栄二はいったい掃きだめでなにをつかんだのでしょうか?


この短い要約の中に、多くの間違いがある。


まず、「主人には聞き入れてもらえず、栄二は石川島の人足寄場に送られてしまいます」と書いてあれば、盗難事件の容疑者として冤罪を着せられたように見えてしまう。しかし原作では、盗難事件で奉行所に訴えられたわけではない。犯人と疑われて自暴自棄になった栄二が錦文に直談判に行ってもめ事になり、連れて行かれた番小屋で名前も答えず「あの店には火をつけてやる」などとつぶやいていたことから、扱いに困った奉行所が人足寄場へ送ってしまったのだ。
現代風に言えば、栄二の容疑は「窃盗」ではなく、「威力業務妨害の疑い」である。


次に、「そうとも知らないさぶは、栄二の居場所を探そうと主人や得意先から嫌われて暇を出されてしまいます」とあるが、さぶが仕事を辞めさせられた理由は違う。「栄二の居場所を探そうと」したことが原因ではなく、栄二の居場所を突き止めたあとで足繁く人足寄場へ通っていたことが原因だった。もうひとつ、栄二ともめ事のあった「主人」からさぶが嫌われることはあっても、得意先からさぶが嫌われたわけではない。


また、「許嫁のおすえ」というのは、絶対にあり得ない。栄二がおすえと所帯を持ちたいと思っていたのは事実だが、寄場に入る前に口にしたことはない。栄二とおすえがはっきり結婚の約束をしていたのなら、そもそも盗難事件は起こらなかったことが物語の最後で明かされている。「許嫁のおすえ」と書くのは、周五郎の伏線を無視することになる。


「俺をはめたのはあついに違いない」と、栄二がさぶを疑う場面も、寄場を出たあとの物語の後半に出てくるもので、中島氏の要約だと寄場に居るときに疑っていたように読める。


要約だけでなく、「 」でくくっている文章も原作と違っている。
「金襴のきれ」が原作では「金襴の切」となっているのは、読みやすくするための許容範囲かもしれないが、他の引用もすべて言葉を変えているのはどういうことか。
  「ここを出たら復讐してやる」
  「俺のことは諦めてくれ」
は、それぞれ原作では
  「おらあ貸しだけは取り立てるぜ」
  「おれのことなら諦めてくれ」
だし、
中島氏が決めゼリフとして引用した
  「寄場での足かけ3年はシャバの10年よりも役に立った」
も、周五郎は
  「寄場でのあしかけ三年はしゃばでの十年よりためになった」
と書いている。


要約が不正確なのも困ったものだが、不正確な引用を括弧でくくると“改竄”になってしまう。文章を生業としている人間がやってはいけないことではないのか。


「100冊の自己啓発書より1冊の山本周五郎」という見出しに惹かれただけに残念だ。
もう少し原作者へのリスペクトが欲しかったと思う。