副題:多発性硬化症との泣き笑い2000日
著者:林家こん平 出版社:講談社 2010年3月刊 \1,470(税込) 238P
最近テレビで見ないと思っていたら、著者の林家こん平さん、病気で長期療養していたそうだ。笑点で「チャラ〜ン!」と叫んでいたこん平らしく、題名が『チャランポラン闘病記』。
難病を乗り越えて帰ってきたこん平の一席のはじまり、はじまり〜。
こん平師匠が病気の徴候を感じたのは、2004年春。
61歳になったところだった。
最初は、目がかすむようになってレーザー治療を受けた。なんだか疲れやすいなぁ、と思っているうちに声が出にくく、かすれるようになった。
根岸のおかみさん(海老名香葉子)から「ちゃんと病院に行って検査をしてもらいなさい」と説教されて人間ドックの予約を入れようと思っていた矢先、突然こん平は倒れた。
意識がもうろうとして、ろれつも回らなくなり、緊急入院することになったのだ。
しかし、最初の病院でも2番目の病院でも、なかなか原因が分からない。
弟子や家族に止められながら病院を抜け出したいという気持を押さえていたが、とうとう夜中に点滴を抜いて逃亡をくわだて、朝になって血の海の中で発見された。
すぐに「こん平『逃亡阻止』および『点滴針自抜きテロ』対策会議」が開かれ、弟子と家族が交代でこん平を見張るシフトが組まれた。
やがて、MRI検査で脳に小さな影が見つかったことから、生体検査を受けることになった。
検査といっても、頭蓋骨にドリルで穴をあけるという。
早い話が、手術と同じじゃありませんか。
なんでこんな目に……と思わないとしたら、よほど神経の図太い人間です。
こん平は、「消え入りそうなくらい心細そうにしていた」とあとあとまで娘に言われることになる。
検査の結果悪性脳腫瘍ではないことが分かった。ならば何が原因か?
家族に告げられたのは、「多発性硬化症」という難病の疑いだった。
このあと、こん平は、2000日におよぶ長い闘病生活に入ることになる。
いくらギャグを交えているとはいえ、病気の話ばかりでは読むのがつらくなる。
サービス精神を発揮して、第2章から第4章までは、15歳で上京してからの苦労話、「笑点」へのデビュー、真打ち昇進などの活躍などが語られ、故林家さん平亡きあと一門を率いることになったいきさつをふり返る。
越後から出てきたとき、親が送ってくれた米俵のおかげで入門を許された、という有名なエピソードも、あらためて本人が紹介していた。
ふたたび闘病生活の話に戻ったあと、家族と根岸のおかみさんに支えられながら、少しずつ回復していく様子が語られていく。家庭を顧みなかったこん平が、病気のおかげで家族の絆を取り戻したことを知ると、病気にも意味があったのかな、と思ってしまう。
親の介護経験を綴った遥洋子著『死にゆく者の礼儀』には、
若い時は勝つ病気が多い。だが老いは、その先にある死に勝てた人は皆無だ。
と、身も蓋もない真実が書かれていた。
まだ病気と闘える62歳だったとはいえ、難病を宣告されたこん平師匠の闘いは、どれほど大変だったか。
生還したこと、生きて帰ってきた喜びが本全体から伝わってくる。
やっぱり、芸人は元気でなくっちゃ!