ひとりの午後に


著者:上野 千鶴子  出版社:日本放送出版協会  2010年4月刊  \1,365(税込)  233P


ひとりの午後に    購入する際は、こちらから


今日はエッセイを取り上げる。


世の中に星の数ほどエッセイ集が出版されているけれど、自分にぴったり合うエッセイに出会うのは難しい。


エッセイではふだんの生活で感じることや、昔の思い出話が語られるから、まず著者のことを「好き」でなければ手に取らない。
著者が好きで手に取ったとしても、文体や書き方が気に入らないと読みつづける気になれない。
なんとか最後まで読み通しても、なんだかもの足りなく感じてしまうこと
もある。人生の真実に触れた思いでもいい、著者への共感でもいい、突き抜けるような笑いでもいい。なにか、もう一つ深みを感じられる内容が欲しいと感じてしまうエッセイもあるのだ。


本書は、そんな幾つもの関門を通りすぎ、深い満足感を与えてくれた。僕にとって“当たり”の一書である。
皆さまの好みに合うことを念じつつ、紹介させていただこうと思う。


上野氏は、先日取り上げた『男おひとりさま道』の著者である。闘うフェミニストとして一名を馳せた御仁であるが、このエッセイに限ってそういう予備知識は不要なので、まず内容に入らせていただく。


社会学者としての著者の生活は、人に会いつづける生活だ。
仕事を終えて深夜に帰宅すると、くたびれて口もきけなくなっている。テレビをつけると人の声が無遠慮に飛び込んでくるし、CMも騒々しいので、まったく見ない。
電話を受けるのもいとわしくなり、自宅の電話番号は他人に教えないようにしている。


社会学者という、あまりに人間くさい仕事を選んでしまったため、プライベートでは、孤独を愛する人のようだ。


昔から、どちらかと言えばペシミストだった、という上野氏は、なにか出来事が起こると最悪の事態を想定する。そうすれば、たいがいの事態は、自分の想定した最悪の事態よりもましに見え、クリアするのが容易になる、とうい論法だ。


どちらかというと、オプティミストに属する僕には、この心境はわからない。分からないから面白いともいえるのだが、そういえば、小説家の小池真理子氏も『闇夜の国から二人で舟を出す』の中で、次のように言っていた。

   もとより、私は悲観的な人間である。子供のころは「自分にはいい
  ことなんか、何ひとつ起りっこない。その代わり、悪いことは全部、
  自分に起る」と信じていた。遠足に行って、運悪く一人だけハチに刺
  されるとしたら、この私以外にはありえない、と思っていた。横断歩
  道を渡っていて、暴走してくるトラックに轢かれるのもこの私、体育
  の時間、跳び箱から落ちて大怪我をするのも、この私だろう、と考え
  ていた。
   そう考えていれば、いやなこと、信じられないようなことが起って
  も、「ああ、やっぱりね」と何ひとつ驚かずに受け入れることができ
  るからであり、それが私の昔からの処世術であった。

なんとよく似た処世術か。


(余談だが、小池真理子氏の『闇夜の国から二人で舟を出す』も“当たり”だった。もう4年前の“当たり”だが……)


若き日、上野氏はどんな気分で青春を過ごしていたのだろうか。


上野氏は言う。

  「青春を謳歌する」はずの高校生活が、楽しいだけのものである
  わけがない。

金沢の風土を「変化を拒む土地がら」と感じ、「腐ったような退屈な街」と思いながら過ごしていたのだ。高校生活の思い出は、決して明るいものではなかった。


金沢を抜け出したあと、京都で送った学生生活も、そのあとに続く20代の青春も、上野氏には情けない記憶ばかりが残っている。

「迷いと不安で混乱し、他人に振りまわされ、他人を振りまわしている」

先の見えないまっくらなトンネルに入った気分で過ごした20代を終えたとき、上野氏は、予想通りラクになった。「自分が何者で、何ができ、何ができないかがようようわかって」きたそうで、少しは忍耐強く謙虚になった結果、友人も増えてくる。
40代には曲がり角を感じ、50代には隠しようのない衰えを感じた著者は、還暦もすぎて、「自分の人生はもはや過去形で語るほか」ない年齢になった。


悪い人生だったとは思わないが、もう一度人生をやり直したくはない、という。


毅然としているというか、身も蓋もないというか。
あまり雑談が弾みそうもない人だ。


意外にも――と言っては失礼かもしれないが、上野氏は「人持ち」だという。
実家の両親はいなくなっても、共に大晦日を過ごしあう気の合う友人がいる。還暦を祝い合う、リブ世代の女ともだちもいる。
恋人だの夫だのは一人と決まっているようだが、友人はいくら多くても困らない。


本書のあとがきで、上野氏は自分のことを「札付きのフェミニスト」と言っている。
読書ノートで以前取り上げた小倉千加子氏との共著『ザ・フェミニズム』の中でも、

  私は、フェミニズムが何をめざすのかと聞かれると、「なんでそんな
  問いに答える必要があるの?」と聞き返します。

とか、

  自分の性関係をいちいち、なんでお国に届けなあかんのや。これから一生
  この人とだけやります、とか、キャンセルしました、とか、なんで言わな
  あかんのよ、あほらしい。

と、闘争的な態度をあらわにしていた。


上野氏にあこがれて『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(遥洋子著)なんていう押しかけ弟子まであらわれたほどだ。


そんな上野氏が「弱者の立場から発想する思想」に一区切りつけ、「ケア」の問題を次の主題に選んだ。老後、介護の問題はフェミニズムよりも幅広い層の関心を呼び、『おひとりさまの老後』、『男おひとりさま道』はベストセラーとなる。


闘争的イメージが薄らいできたからだろうか。上野氏にエッセイを書いてもらいたい、という編集者があらわれた。
よしもとばなな氏も担当しているという。


フェミニスト上野ではない一面を引き出すようなエッセイを書いてもらいたい。それも下ろしで、と。


上野氏は研究者として、「考えたことは売りますが、感じたことは売りません」と言いつづけてきたという。
禁を犯して感じたことを語り続けた本書には、リングを降りた元世界チャンピオンの余熱を感じる場面はあるが、まったくケンカの場面は出てこない。


人生の午後をむかえ、太陽の日差しが肌を刺すように激しかったころを回想する上野氏からは、満ち足りたひとときを過ごす充足感が伝わってくる。