左手の証明


副題:記者が追いかけた痴漢冤罪事件868日の真実
著者:小澤 実  出版社:ナナ・コーポレート・コミュニケーション  2007年6月刊  \1,575(税込)  322P


左手の証明―記者が追いかけた痴漢冤罪事件868日の真実 (Nanaブックス)    購入する際は、こちらから


著者の小澤氏は共同通信社に勤務していますが、仕事でニュースを追いかけるだけでなく、プライベートな時間を使って社会問題を取材して出版しています。
前作でDV(家庭内暴力)の問題を取り上げたあと、小澤氏が興味を持つ問題はいくつもありましたが、最終的に痴漢冤罪事件を取り扱うことにしました。


痴漢冤罪事件の当事者は悲惨です。
やってもいない犯罪の犯人とみなされ、仕事は失う、家庭は崩壊する、ストレスで心を病む。警察も検察も「やっていない」という主張に耳を傾けてくれず、人間を信じられない精神状態に追い込まれる。
その理不尽さを世の中に訴えるため、著者は多くの裁判を傍聴し、本書で取り上げる冤罪事件にたどりつきました。


本書を読んでいて驚くのは、5月14日のブログで取り上げた周防正行著『それでもボクはやってない』との共通点があまりにも多いということです。
もちろん、周防氏の作品は複数の裁判を取材した結果を元にしたフィクションであるのに対し、小澤氏の作品は実際の固有の裁判を追ったノンフィクションです。主人公の年齢も家族構成も違っています。違う物語であるはずなのですが、ひとたびチカンとみなされて逮捕されてしまうと、驚くほど同じ扱いが待っているのです。
頭ごなしに犯人として扱われ、否認すれば拘置延長が待っています。長い取り調べと裁判を乗り越えるためには、強い意志と闘争資金が必要です。
むしろ、やっていなくても痴漢を認めて示談にした方が、傷が浅くて済むと考えてしまうくらいです。


本来なら推定無罪で審理を進めなくてはならないはずなのに、裁判官も一種の役人に過ぎず、推定有罪で判決を下してしまう。
ずさんな捜査が明るみに出ても、裁判官の有罪推定は変わらず、本書の場合も、納得できない有罪判決が下りました。


周防監督の映画と違うのは、一審で終わることなく、高等裁判所での法廷闘争も詳細に追っているところです。
執念の控訴審では、一審の際に明らかになった警察の怠慢や予断を具体的に指摘し、一審の裁判官の判断がいかに間違っていたかを一つひとつ立証していきました。


迎えた高等裁判所の判決は、逆転無罪でした。


よかった!
でも、主人公が冤罪に巻き込まれて失ったもの――特に家族の健康が損われ、信頼関係にもヒビが入りかけたこと――が多いことを考えると、単純に喜んでオシマイというわけにいきませんでした。
やっぱり冤罪の構図はなんとかしなければいけない。
一般人の読者がどうやったら冤罪の構図を無くすことができるのか。そんなことが分からなくても、義憤の燃え上がる一書でした。


本書には、小澤氏が本書の取材のため裁判を傍聴していて、周防監督にも遭遇したエピソードがちょっとだけ登場します。そのときは、「Shall we dance ?」の監督という認識しかなく、まさか自分と同じテーマの映画を先に完成させるとは思ってもみませんでした。


その周防監督が、フジテレビの早朝番組『フジテレビ批評』に先日出演し、やっぱり日本の裁判制度はおかしい、と熱弁をふるっているのを見ました。
その中で「裁判員制度」について「あなたに人を裁けますか」というふうにプレッシャーをかけるような論調があることに言及し、次のように言っていたのが印象的でした。
  裁判員が被告人を裁くわけではない。
  検察官が被告人の罪を立証する内容を聞き、その論証を
  何の疑問ももたずに納得したら有罪、そうでなければ無罪と
  判定すればよいだけ。
  裁判員が立証責任を持つようなプレッシャーを感じる必要はない。


この話を聞いて、昨年4月に「行列のできる法律相談所」に出演している橋本弁護士の講演会で聞いた話を思い出しました。


橋本氏によると、裁判所が計画しているのは、死刑や無期懲役を争うような裁判に一般人を参画させることです。残虐な殺人の現場写真を見せられたり、強姦の詳細な内容を聞かせられるのは、プロの弁護士でも嫌なものだそうです。また、死刑の判決を下した裁判官も、何日も被告の顔が頭から離れないほど悩まされるそうです。


それを素人に強いるというのは、この制度を失敗させてやめさせようという最高裁の意図があるからではないか。そうでなければ、最初は小さな事件の審理から参画するようにすべきではないのか。


それでも、もし裁判員に選ばれてしまったら、自分の生きてきた経験から
出てきた直感で判断するしかない。というのが、橋下弁護士の主張でした。
(私の昨年4月4日のブログを参照ください)