副題:私はこうして本を書いてきた
著者:谷沢 永一 出版社:東洋経済新報社 2006年5月刊 \1,680(税込) 220P
200冊以上の著書を書いた谷沢氏が、自身の執筆ノウハウを明かす、という売り文句の書名です。
しかし、長年かかって会得した文章を書く方法は、気合いと活力の総合力といえるもので、そんなに簡単に伝えられるものではありません。冒頭で早くも白旗を掲げ、筋道たてて表現することは困難であることを宣言しています。
代わりに考えたのが、具体的な話題に即して――つまり、実際に自分が書いた著書の例を挙げて――解説する方法です。どのような事情で書きはじめ、どのような工夫をこらし、時にはいったん放り出したりしながらどのように完成させて世に送り出していったかを書く。読者自身がそこから執筆のノウハウを察してほしい、という趣向です。
できあがった書物は、結果として、谷沢永一の著述家としての側面だけを抽出した一代記に仕上がりました。もちろん、家族のことも、大学教授としての思い出も全く登場しません。それだけに谷沢氏を知るための格好の入門書として読むことができます。
恥ずかしながら、私はこの「稀代の著述家」の本をまだ読んだことがありませんでしたが、本書のおかげで谷沢氏を身近に感じることができました。
本書の内容に立ち入る前に、まずお断りしておかなければならないのは、本書の言葉づかいが相当古く、とっつきづらいことです。谷沢氏は、決して教養の豊かさを自慢しているわけではないのですが、文語調の文体といい、漢語が多いことといい、文章が長いことといい、「ひょっとすると夏目漱石より古いんじゃないか」と思わせる文章です。
一番とまどったのが、漢字にカタカナでふりがなをふっていたり、通常とは違う読み方を示していることで、そのたびに同じ個所に2回視線を走らせるハメに陥ります。
実例をあげてみましょう。
次の文章を読んでみてください。(文中《》で囲んだ個所は「ふりがな」です)
一旦この世に生を享けた以上、できるかぎり運を呼びこみたいと、ひそ
かに願うのは人情の自然であろう。
それが叶えられるためにはどうしたらよいか。答は実に呆気《あっけ》
ない。自分以外の人びとを重んじる気分を醸す心配りである。伊藤仁斎は、
世に処する人の道を、譲《ゆずり》、という一語に縮約した。他人《ひと》
に対して、お先へどうぞ、と挨拶するゆとりのある人柄に、かならず世間
は何時《いつ》か注目する。尊敬する人のために何事か力を致す姿勢は、
知らぬ間に本人の精神を鍛えるであろう。こうして成育しながら機会《チ
ャンス》を活かした者が、あれは運のいい人であると評判されてきたよう
に思われる。
どうでしょう。
一度読んだだけで谷沢氏の処世訓が理解できたでしょうか。
そもそも、聞いたこともない「伊藤仁斎」という御仁に、何の説明もありません。
ちょっと余談になりますが、たまたま連休中(4月30日)にテレビ東京で放送した「カンブリア宮殿」で、「伊藤仁斎」という名前を聞きました。
この日の放送は、急成長を続けるジュンク堂の強さの秘密を探ろうというもの。「社員の個性で売りまくれ!」と題した放送の一部で、カリスマ店員で有名な田口久美子さんの仕事風景をビデオで紹介していました。(番組の内容は、カンブリア宮殿公式HPの4月30日のページを参照ください)
若手書店員から「“イトウジンサイ”ってどう書くか分かりますか?」と質問された田口さん。「イトウは普通の伊藤で、ジンはニンベンに数字の二、サイは斎藤さんのサイよ」と答えたかと思うと、スタスタと棚に向かって歩き出し、お客さんの求めていた『童子問』を「これですね」と差し出しました。
さすがカリスマ書店員。カッコいい! という感想はさておき、「伊藤仁斎」は、ふつうの書店員では聞いたこともない人物なのです。
それを、無意識に「知っていて当たり前」と流してしまうのが谷沢氏の文章です。読みづらく感じた場合は、自分の知識の至らなさを反省させてくれる良い機会ととらえ、ちょっと我慢して読みすすんでください。
さて、本の内容に入りましょう。
とはいえ、本人も白旗をあげているのに、谷沢氏の長年の努力の過程を他の人間が要約することは不可能です。
私からは、「決して最初から売れっ子でも人気作家でもなかったのだなあ」という当たり前の感慨をお伝えしておきます。
今回も長い文章になってしまいましたが、最後にもう一つ、文学・文芸に浸りきって生きてきた谷沢氏に贈られた天恵の瞬間を紹介させていただきます。
それは、敬愛する司馬遼太郎の全集の解説を書かせてもらった後の出来事です。
小説家としてだけでなく心の中でひそかに私淑し、唯一の人生の師とも仰ぐ司馬遼太郎から一文を贈られます。
平成2年に書かれた「私筆のみを」という文章で、司馬氏は、
「私は私事や私情を文章にしないように心掛けてきたが、谷沢永一氏と
いう人についてふれねばならぬ場合にかぎって、このように手前味噌
を書く」
と異例の前置きをしたあと、最大限の讃辞を書きました。(讃辞の内容は、本書144ページをご覧ください)
谷沢氏は、次のように短く締めくくりました。
私は、この世に生きた甲斐があった。
文章を書く苦しみと喜びが伝わってくる一書でした。
じっくりと読むことをお勧めします。