副題:エド・マローが報道した現代史
著者:田草川 弘 出版社:中公新書 1991年12月刊 \819(税込) 245P
エド・マローは、第二次世界大戦前から活躍していた放送ジャーナリストです。アメリカではいまだに国民的ヒーローとして、よく知られているそうですが、
日本では無名です。
1991年に出版され2000年に再版された本書は、そのエド・マローを紹介した日本で唯一の評伝です。
マローがCBSに入社した1935年当時、まだテレビは出現していません。ラジオが全米に普及しつつある時代で、まだまだ放送の中心は娯楽番組。ラジオ局の中で後発のCBSは、ニュースなどの公共番組に力を入れることにしました。
ラジオの報道によって新聞の売上げが減ることを恐れた新聞社は、ラジオ番組を掲載しないと脅したり、スポンサーに手をまわして圧力をかけてきます。とうとう、マローが入社する2年前、ラジオ局は今では考えられないような条件を飲みました。
ニュースの終わりに「詳しくは新聞で」というアナウンスを入れる、なんていうのはかわいいもの。一回のニュースは最高5分。1日合計10分以内。発生後12時間経過した出来事だけを放送すること、なんていう合意書が残っています。
しかし、負けたはずの放送局は、名を捨てて実をとります。例外として認められた「至急報」を乱発することにより、ラジオは少しずつ世の中に認められるようになりました。
そんな中、エド・マローが最初に話題を呼んだのは、ヒトラーがオーストリアを併合した直後の生々しい情況を現地から生放送したことです。
その後もヨーロッパ局長として、ロンドン大空襲を生中継するなどの成果を上げ、第二次世界大戦後のニューヨークに凱旋したエド・マローは、副社長に昇格しました。
テレビ時代になり、スポンサーにも恵まれたマローは、話題のドキュメンタリー作品を連発。
赤狩り旋風が吹き荒れるなか、当のマッカーシーのデマゴーグ手法を批判する番組を放送したときには、マロー自身も傷を負いました。
本当はマイク恐怖症のマローでした。
放送が始まるとひざが震え、汗びっしょりになりながら、ラジオ・テレビの草創期に、生涯5000回に及ぶ番組を送りつづけます。
しかし、テレビの大衆化に伴い、利益を優先する経営陣との亀裂が大きくなってしまいました。番組の回数を減らされ、内容にも介入されるようになったとき、マローは経営陣との対立の末にとうとうCBSを退職。
晩年をケネディ政府の高官として過ごしたものの、ガンに侵されたマローは、闘病むなしく世を去ります。
わずか57歳でした。
アメリカのジャーナリストといっても、私は「クロンカイトという有名なキャスターがいた」、ということを聞いたことがあるだけ。もちろんエド・マローという名前を本書ではじめて知りました。
マローと長年ドキュメンタリーを作成したフレッド・W・フレンドリーは、著者のインタビューに応じて、次のように証言しています。
「マローには他の誰にもない二つのものがあった。一つは完全に独立した
編集権。もう一つは他人の身になって苦しみや痛みを思いやる優しさだ。
この思いやりの心ばかりは、決して私には真似のできないものだった」
それがマローの番組の底流となり、人々の心に訴える力となったのだろう、とのことです。
日本で伝説のジャーナリストと呼ばれる黒田清や本田靖春も、他人の痛みを思いやる優しさを持った人でした。
奇しくも、二人とも会社と決別するという道を歩み、病に倒れるという共通点まで持っています。
反骨のジャーナリストの偶然の一致でしょうか。
さて、本書のエピローグに1枚のカードのことが書かれています。
著者がマローの関係者をインタビューしていたとき、「これを見たことあるかい」と見せられたのが「クローバー・カード」でした。
『ニューヨーク・タイムズ』の記者出身で報道担当のCBS副社長になったエドワード・クローバーが、1939年、生まれたばかりのラジオニュースの規範として書いたものです。
クレジットカード大の小さなカードに書かれた指針を大切にしているジャーナリストは多く、マローも拳々服膺(けんけん‐ふくよう 胸中に銘記して忘れず守ること)していたとのこと。
(具体的な内容は、本書を参照ください)
なんだか、リッツ・カールトンホテルの「クレド」を連想させる話です。
肌身離さず持ち歩く、というのが、指針や精神を身につけるための一番の方法なのでしょう。