黒田清 記者魂は死なず


2005年12月刊  著者:有須 和也  出版社:河出書房新社  \1,995(税込)  347P


黒田清 記者魂は死なず


黒田清といえば、大阪読売新聞の社会部長として『戦争展』を開催したり、読者の投稿に寄り添うような名コラム『窓』で話題を呼んだ伝説のジャーナリストです。
本書は、昭和6年(1931年)に生まれ、平成12年(2000年)に亡くなった黒田氏の日記を元に、彼の生涯をたどる伝記です。


黒田氏の真骨頂は、やはり読売新聞に入社してからなのか、それとも単に資料が少ないせいなのか、全13章のうち、入社以前の生い立ちについては1章しか割かれていません。数少ないエピソードの中に、後年の黒田氏の生き方につながる逸話がありました。
少年時代に被差別地区を訪問した時のことです。恐いところにいくから気をつけるように、と先生から注意を受けましたが、現地では心温まる歓迎を受けました。昼休み、みんなが持参のさつまいもなどの弁当を食べようとしたとき、
   「若いからおなかすいたやろ。雑炊つくったから食べて元気つけなはれ」
と数人のおばさんがナベを持って駆け寄ってきました。
食料不足のなか、丼に盛られた雑炊は何よりのごちそうです。
「先生の話と、えらい違うやないか」と子ども心に感じました。その思いが、後年、差別される側の苦しみを訴えた『窓』の文章に結実しました。


読売入社後、着々と取材力・文章力を認められるようになった黒田氏は、大阪読売新聞の社会部長として発行部数日本一への推進力となる充実した社会面を提供し続けました。強力な彼の部下たちは「黒田軍団」と呼ばれるようになります。


しかし、大阪読売新聞の社長交代を機に社内環境が悪化。先代社長と違い、東京読売の意向に沿うことしか考えない“ヒラメ”社長のおかげで、黒田氏は社会部長から編集局幹部に「専任」させられました。黒田氏に近かった人物が次々と左遷させられ、黒田氏に残されたのは『窓』のコラムだけだったといいます。


定年まで数年を残して読売新聞を退職した黒田氏は、「黒田ジャーナル」を発足し、「窓友会新聞」という自らのメディアを獲得しました。
しかし、1部500円では商業ベースに乗せられません。彼を追って黒田ジャーナルに参加してくれた大谷昭宏氏と二人で、テレビや講演会への出演、月刊誌・週刊誌への原稿執筆で収入を得、「窓友会新聞」の赤字を埋めながら発行を続ける日々が続きました。忙しさのあまり、彼を慕って入社してくれた社員とゆっくり接する暇もないほどで、黒田事務所は人の入れ替わりが多くなります。


暴飲暴食、タバコに徹マンと不健康な生活を重ねた黒田氏ですが、とうとう1997年にすい臓ガンが発見されました。手術して復帰しますが肝臓にガンが再発。死の直前まで原稿を書き続け、2000年7月帰らぬ人となりました。


「報道とは伝えることやない。訴えることや!」
いまや、本当に伝説になってしまった黒田清の叫び声が聞こえる一書でした。


個人的な思い出になりますが、黒田氏が読売新聞大阪社会部で活躍していた頃、私は遠く神奈川の地でファンになりました。その後、転勤で1987年4月から88年にかけて一年だけ西宮市に住んだことがありましたが、ちょうど黒田氏が読売新聞を退社したばかり。とうとう『窓』の連載を読む機会はありませんでした。


本書を読んだあと、まだ黒田氏が社会部長の頃に出版した『愛惜のつぎにおもうこと』を本棚から引っ張り出してみました。
男らしさ、女らしさをテーマにしたこのエッセイ集で、不思議に印象に残っているのは、読むだけでヨダレが出てきそうな食べ物の描写です。関東人に縁のない「鱧(はも)」という魚が無性に食べたくなったことが特に記憶に残っています。
「旅は駅弁のときめき」の一文、
   それに不思議なことだが、駅弁でビールを飲む場合は、ごはんもおかず
   になってしまう
も、車中で幕の内弁当を広げているくいんしぼうで酒好きな黒田氏が見えるような文章です。


『愛惜のつぎに……』のあとがき書かれた、いかにも黒田氏らしい文章を紹介して、この追悼読書を終えたいと思います。
   男らしさとは、人間らしさ、言いかえれば人間としてのやさしさに尽き
   るということだった。(中略)それは何事もきれいさっぱり、なくした
   ものはあきらめて、といったような生き方ではなくて、逆にもっとなよ
   なよ、じゃらじゃらと、なくしたものに執着し、あきらめず、なんであ
   んなええもんがなくなってしもうたんやろかと、いつまでも女々しく思
   いつづける、そんな生き方が男らしい、人間らしいという結論になった
   のである。