ザビエルとその弟子

2004年7月刊  著者:加賀 乙彦  出版社:講談社  価格:\1,680(税込) 237P


ザビエルとその弟子


本書は、日本にキリスト教を伝導したことで有名なフランシスコ・ザビエルの最晩年を描いた小説である。
イエズス会の創立メンバーの一人だった彼は、インド管区長として東洋布教という新しい道を開こうとしていた。日本で布教の道筋を立てた後、次の宣教先として選んだのが当時入国禁止令の出ていた中国である。しかし、出発地マラッカの権力者に中国との密貿易の邪魔になる、という理由で妨害され、なんとか出発したものの中国へ到着することができずに客死した。


マラッカからの出発の苦難と中国の南の島サンチャン島での最期を描いた本書には、3人の弟子が登場して師ザビエルの行き方との対比を見せてくれる。


貴族出身のフェレイラは、終日祈り暮らすザビエルに対し「どうも、無駄な努力のように思えてならない」という現世的な価値観を持つ。教会内の栄達という“世俗的”な成功を目指している彼は、ことあるごとに師匠を内心で批判し、とうとうザビエルからイエズス会からの退会を命じられる。
日本人として初めて洗礼を受け、ザビエルと共に故郷薩摩に上陸して布教を助けたアンジロウは、死霊としてザビエルの死の床に現れる。そして、日本での布教方法が性急すぎた、もっと中国や日本の文化の伝統を尊重して教えを広めるべきだったと主張する。
優秀だった二人の弟子が師を批判するのと対象的に、神学の未熟な中国人のアントニオはザビエルに心身共に付き従う。彼はザビエルの死に立ち合い、遺体をマラッカへ持ち帰ったが、その後まつられていくザビエルの遺体から遠ざけられ、教会で栄達することもなく一生を終わる。


一生を神に捧げた頑強な信仰を持つザビエルの生涯は、はたして満足できるものだったのか、悔いのないものだったのか。著者は弟子三人の生き方を通して読者に黙考させてくれる。


小説の本題から外れるかもしれないが、私が興味深かったのは、ザビエルの遺体の扱いである。最初は遺骨を持ち帰ろうした。早く遺体が腐敗するように石灰と共にいったん埋葬し数ヶ月後に掘り返したが、全く腐敗する様子がない。マラッカに遺体を持ち帰った後、腐らないザビエルの右腕は奇跡認定の証拠品としてローマに送られ、イエズス会教会の小祭壇に祭られる。右腕を失った遺体もゴアにある教会の中の豪華な水晶の柩の中に移され、現在も全世界からの巡礼者が聖なる司祭の遺体を拝しているとのこと。


キリスト教というと、清潔な教会の中で清らかな教えを説いている、というイメージがあるが、本家カトリック教会でもこういう土着的な奇跡を認定しているというのは、以外な発見である。
そういえば、「カラマゾフの兄弟」にも皆に尊敬されて亡くなったゾシマ長老(主人公アリョーシャの師)が、あまりにも早く遺体から腐臭を発したために信者を困惑させる場面があった。
神に祈りを捧げ信仰の世界に生きた人は肉体が清められるので腐ったりしない、という土着的信条がキリスト教に受け継がれているらしい。


〔2004-12-6 追記〕
学生時代の友人からコメントをもらいましたので追記します。


「ザビエルとその弟子」に出てくるザビエルは日本では日本に初めて
布教した偉人として有名ですが、イエズス会というカソリックの大会派を
創設したメンバーとして世界中の尊敬をあつめています。


さて、腐らないから神聖だ、という考えはキリスト教ローマ帝国により
国教となって「イタリアの宗教」となったあたりから発生してくる
ようです。
イタリアは長く世界の科学最先端国でした。腐らないから純(purified)
であるという考えは、「科学的」であり「最先端」の考え方として
受け入れられたものと考えられます。
現在のキリスト教原理主義者の発想とはまったく逆で、非常に先進的
だったのだろうと私は考えています。
実証主義的でもあります。


確かに現代人の目から見ると「土着的」であり「古い」発想に見えるわけ
ですが、歴史的視点で見直しますと「科学的」であり「先端的」な思想を
積極的に取り入れた結果だったと解釈したほうが、よろしいと思います。