冷血 〈上・下〉


書名:冷血 上
著者:高村 薫  出版社:毎日新聞社  2012年11月刊  \1,680(税込)  310P


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書名:冷血 下
著者:高村 薫  出版社:毎日新聞社  2012年11月刊  \1,680(税込)  289P


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この本を読んでいた4月半ばのこと。
駅から会社に向かうバスの中で、隣りあわせた読書好きの知人から、「今、なに読んでるの?」と聞かれ、「これです」と見せた。


「“冷血”ですか。どんな内容ですか」
「一家4人の惨殺事件を扱った小説です」
「うわぁーー、猟奇ものですかぁ……」


いやいや、違うんです。決して猟奇ものが趣味というわけではないんですぅ!! と、言い訳したものの、分かってくれたかどうか……。


つづきを読みながら、思った。


確かに、暗い事件を扱った、暗いトーンの小説だ。
読んでいて、心がワクワクする本じゃないし、最後に救いがあるかどうかもわからない。
しかも、二段組みで上・下あわせて600ページもある。


でも、途中でやめられない。
この本が読者を引きつける魔力って、なんなんだろう?


月並みかもしれないが、僕が思いあたったのは、「目の前で起こっているように情景が浮かび、心情がつたわってくるから」ということ。


主人公の合田刑事の行動と心情はもちろん、事件に巻きこまれる前の女子中学生の独りごとも、常識では考えられない犯人の言動も、絵そらごとではなく、本当に起こっていることのように伝わってくる。


目の前で現実に起こっている物語からは目がはなせないのだ。


この解釈は、著者インタビューで高村薫が次のように語っていることと符号している。

私は、事件というものは、必ず風景の中で起こると思っています。別に事件だけに限らず、人は必ず生きている場所、生きている空間、生きている土地の風景と共にある。ですから、風景が人をつくる、と言ってもいいと私は思っているんです。現実の人間の人生も風景と共にあるから、小説の場合も必ずまず風景があって、人物が立ってくる、というふうに思っています。
  (著者インタビュー動画 http://mainichi.jp/graph/2012/12/13/20121213mog00m040012000c/004.html より)


物語は、次のように展開する。


高梨あゆみは13歳になったばかりの利発な中学生。
歯科医どうしで結婚した両親と、小学校1年生の弟といっしょに、クリスマスにディズニーシーへ遊びに行こうとしていた。


そのころ、裏求人サイトに「スタッフ募集。一気ニ稼ゲマス。素人歓迎」という書き込みがあり、この募集記事で顔を合わせたばかりの2人の男たちが、ATMを破壊したり、コンビニ強盗を襲う。


目をつけた住宅に空き巣に入った2人は、留守のはずの家主が2階から降りてくる事態に直面し、一家4人を撲殺するという凶行に及んだ。
夫人を殺す前にキャッシュカードの暗証番号を聞きだしていた2人は、国道16号線沿いを転々としながらコンビニで現金を引き出した。


防犯カメラの映像をはじめ多くの遺留品を残した2人は、ほどなく逮捕され、警察の尋問がはじまる。


容疑者は犯行を認めたが、捜査は行き詰まった。
いくら尋問しても動機がわからない。「何も考えていなかった」、「勢いで動いた」との供述では、犯意が不明だし、担当の検事も納得しない。


どうどう巡りの尋問の果てに、主人公の合田刑事は考えた。
犯行に明確な理由など必要ないのではないか。

たまたまどこからか現れた男二人が、ほとんど何も考えず、目的すらはっきりしないまま、なにがしかの気分に任せて動いた結果の一家四人殺し

という解釈のどこがいけないのだ。
分かりやすい動機を求めようとするから、無理な作文が作られたり、ありもしない筋道や物語がつくられてしまうのではないか、と。


合田刑事は、警察官という立場から逸脱して、入院中の容疑者を見舞ったり、本を差し入れしたりしはじめる。


裁判が進行するにしたがって、合田刑事の胸に去来するものは……。



書名の『冷血』は、アメリカの小説家トルーマン・カポーティが1965年に発表した作品名と同じで、本作はカポーティ作品へのオマージュとして書かれている。


カポーティの『冷血』は、実在の殺人事件を下敷きにした小説である。取材して分かったことだけを書いたノンフィクションでもなく、作家の想像だけで書いたノベルでもない、という自負から、カポーティはこの作品を「ノンフィクション・ノベル」と名付けた。


高村薫が書いたのは、全くのフィクションであるが、カポーティ作品のプロットを意識して物語を展開している。


殺人事件の被害者が4人家族であること、
惨殺された状態で見つかったこと、
被害者が誰かから恨まれるようなトラブルをかかえていなかったこと、
捕まった犯人を取り調べてみると、単なる物盗りが動機ではなく、不可解な
点がおおいこと、
犯人の生い立ちが、徐々に明かされていくこと。


しかし、カポーティの『冷血』が伏線となっているわけではないので、本書を読む前にカポーティを読んでおく必要はない。


むしろ、合田刑事が登場する高村薫『レディ・ジョーカー』『太陽を曳く馬』を読んでいると、合田刑事の成熟ぶりや、合田刑事がいだく人生への諦観の深さを味わえるかもしれない。


もちろん、本作だけで独立した小説として十分な読みごたえがある。


主人公の合田刑事の心情に感情移入することが多かったなかで、僕が特に身につまされたのは、事件現場に向かう合田刑事の心情だ。


少し長いが引用させてもらう。

 かくして握り飯片手に、警察から支給されたものではない個人の携帯電話でJRの予約窓口に電話をかけ、名前を告げて、十二月三十日の京都行きと一月三日の東京行きの新幹線指定席と、四日分のレンタカーの予約を取り消した。それから、自分の携帯電話を開いた勢いで、元義兄の官舎の留守番電話にも短いメッセージを入れた。今日、北区の事件に駆り出されたので正月が無くなった。また手紙を書く、と。(中略)
 ほかにその場で片づけたのは、この半年の間に増えた農業関係の知り合いとの、忘年会や新年会を欠席する旨のメール。月一回の歯のクリーニングの予約のキャンセル。気が向けば覗くつもりにしていた古書店の年末セール。『教業信証』を読む会。年明けの科学カフェ。剪定鋏の研ぎ方講習会。ベランダの洗濯物。サボテンその他の鉢植えが二つ三つ。そうして諦めるものは諦め、細かな予定を消し終わると、久しぶりの旅行を含めた自身の個人生活の全部が音を立てて流れ去り、三百メートル先で待っている仕事だけが残った。どこからともなく滲みだしてきた所在なさと一緒に、直ちにベンチを立った。


年末の旅行をキャンセルし、刑事の職務の合間に交流していた農作業仲間との約束をキャンセルし、個人的生活のすべてをなげうって捜査に向かう中年刑事の侘びしさがにじんでいる。


昨年の8月に職場が変わってから仕事優先の生活を強いられている、という自分の身に起きた出来事と重なってしまい、物語の本筋と関係なさそうな箇所にグッときてしまったのだ。


ただし、合田刑事の「所在なさ」は、一見、物語の本筋と関係なさそうに見えて、本書全体を貫くやりきれなさを醸し出している大きな要素でもある。
合田刑事の心の葛藤こそが本書の主題だからだ。


それは、さきほど引用した著者インタビューで著者自身も語っている。
インタビューの最後の言葉を紹介させてもらう。

胸がすくような活躍をする合田でもないですけれど、同時代を懸命に生きている、懸命に生きながら、いろいろな幸不幸とか悲劇とか不条理と向き合っている姿を見て欲しい、と思います。