努力しているヒマはない!


副題:新しい時代の生き方、働き方
著者:宋 文洲  出版社:学研  2005年12月刊  \1,365(税込)  221P


努力しているヒマはない!―新しい時代の生き方、働き方    購入する際は、こちらから

本の内容に入る前に ―― その1


ブログ・メルマガで書評を書きはじめて2年9ヵ月になり、取り上げた本も300冊を超えた。
読んだ本の内容をふり返りながら文章にまとめることは楽しいことで、おかげで読書量も増えた。ところが、最初は短かったレビュー文も、だんだん長くなり、おまけに何度も読み返しながら書くので、ずいぶん時間がかかるようになった。おかげで、この1年は、週2冊のペースが定着してしまい、読んだままレビューにまとめる時間のとれない本も出てくるようになった。
読書量自体は減っていないので、もっと時間をかけずに書いていれば、取り上げる本も増えるのに、もったいないことである。それに、あまり同じスタイルで書いていて、「あっ、この言葉遣い、前にも使ったなあ」と思い出して、別な言葉を使おうとして、ますます時間がかかる。
一種の悪循環に陥ってしまった観もあるので、ちょっとだけ新しいスタイルを加えてみようと思う。


それが、「卒読ノート」というスタイルだ。


何がいままでと違うのか。


その1。
まず、文章を推敲しない。
読み返すたびに、気に入らない個所が目について、時間がかかるばかり。「卒読ノート」では、思いついた言葉をそのまま書き連ねていくことにする。少々わかりづらかったり、文章の係り結びがおかしかったりするかもしれないが、勢いで書いた文章は、何度も推敲して書いた文章と別の味があるはずだ。
そもそも、ブログというものは、そうやって思いつくまま書くものじゃなかったのか。


その2。
「です・ます体」を使わない。
当初、「だ体」「である体」で書いていたが、あとで自分で読んでみると、ものすごく「エラそう」に感じた。
もともと論文調の「である体」は、何か自分の「論」を世に問うときの文体だから、エラそうに感じるのは当然かもしれない。夏目漱石の「猫」は、猫のぶんざいで「我が輩は猫である」というエラそうな文体を使う、という落差がユーモアを醸し出していたそうだ。
しかし、一般人が「である体」を使うと、書いている本人もだんだんエラそうな気分になってしまい、書いている内容も、上から見下して物を言うようになる。最後に、いかにも警句で締めたくなったりして、紋切り型の文章になりがちである。(こういうふうに、「なりがちである」と断定すると、いかにも、それが通説のように聞こえるし、そう書いている本人も自分が文章のプロのように錯覚してしまうのが、この文体のおそろしいところ)


だから、割と早い時期に、文体を「です・ます体」に変えた。自分はたいした人間じゃありませんが、こんな面白い本を読みましたから、よかったら読んでくださいね〜〜、という姿勢を示したかったからだ。
この作戦は、とってもうまくいった。文章が丁寧になり、気持ちもサービス精神旺盛になり、何より、長く続ける源泉になった。


しかし、日垣隆氏も言っている通り、「です・ます体」は、大リーグ養成ギブスのように文章を書くときにとても苦しい。文末が単調になるので、推敲の時間も多くなりがちである。


いままでより、気楽に、力を抜いて書くのであれば、「です・ます体」を使わないほうがいい。サービス精神を込めてたくさん書いてきたのだから、「である体」を使ったからといって、急にエラそうになることもないだろう。……と思う。


その3。
調べ物をしない。
「読書ノート」を書いていて、分からない言葉や、よく知らない事象に出会うと、ネットでよく調べ物をした。最近は、ウィキペディアが充実しているし、「えーっと、あの番組、何て言う番組だっけ」というようなテレビの番組についての疑問でも、誰かがどこかでネットに載せていてくれる。だから短時間で調べられるとはいえ、書いている文章の流れが中断するのは間違いないし、これも、文章を書く時間が長くなる一因だ。


分からなくても、調べない。そのおかげで、話題が広がらなくても構わない。「卒読ノート」は、そう決めようと思う。
もちろん、全部の文章スタイルを変えるわけではない。いままで通り、「読書ノート」は「です・ます体」で、途中で調べ物をして、何度も読み返して書くつもりなので、そこんとこヨロシク。

本の内容に入る前に ―― その2


ところで、「卒読」とは何か。
私は、この言葉に宮崎哲弥著『1冊で1000冊読めるスーパーガイドブック』で出会った。「あとがき」にこう書いていたのだ。
             ↓
   週の終わりにテーマを決め、10冊〜20冊ほどの対象書をリストアップ
   し、本を集め、四日ほどで卒読し、冊数を絞り込み、再読し、金曜日
   までに原稿を仕上げる。そういう生活を五年以上続けた。


この文章を読んで私は、「ざっと目を通す」「とばし読みする」という意味と理解した。いい言葉を見つけた、と喜び、「読書ノート」が精読した結果を丁寧にレビューしているなら、「卒読ノート」は、ざっと読んだ本を思いつくままに感想を書く、という方式のタイトルにしよう、と思いついたのである。
しかし、私のパソコンで「卒読」と打ち込むと、「はじめから終わりまで」と表示される。書いている最中に言葉の意味が表示されるのは、辞書付ATOKのありがたい機能なのだが、ATOKの話はさておき、これでは私の意図と違う意味になってしまう。


調べない、と書いたばかりなのに、さっそく調べてしまった。
「卒読」をググると、351件しかヒットしない。ほほー。あまり使われない言葉なんだなあー。
「卒読とは」だと、なんと3件。その1件 http://rokugou.cside.com/sub384hantihankai.htm に、「明解国語辞典を引いてみると、こっちには「最後まで読む」と「「本を急いでざっと読む」が併記されていました」とあるので、この使い方を私も踏襲することにしよう。

いいかげんに、『努力しているヒマはない!』に入ろう


『やっぱり変だよ日本の営業』で有名になった中国人実業家、宋さんの本。
『やっぱり変だよ日本の営業』では、意味のない営業日報を書かせるような日本の根性主義の営業を批判していて、その痛快さから多くのマスコミにも登場した。私は、4年くらい前の朝日新聞日曜版と、2、3か月前のテレビ東京カンブリア宮殿」で見た。


常識をひっくり返す発想が面白い!
今日取り上げる本も、タイトルからして常識やぶりなところがいい。
「努力は成功につながらない」「大人の努力はムダばかり」など、目次を見ただけで痛快な内容が想像できる。


“卒読”した感想はというと、もちろん面白かった。痛快だった。ストレス解消に最適!
もちろん、お勧めである。


私が一番興味深く読んだのは、「あとがきに代えて」で、「夢」について語っているところ。
昨今、「夢」という言葉を持てはやし、夢を持てない若者をダメ人間扱いするマスコミの風潮がある。
宋さんは、こういう風潮が嫌いなようで、「夢はなんですか」と聞かれると、「疲れたときしか見ないんです」とはぐらかす。うまい! ざぶとん1枚!


宋さんが夢の話をしないのは、個人的な夢がないからではない。それでも公言しない理由は、個人的な夢は個人のものだから、というのが一つ。もう一つの理由は、宋さんの夢がコロコロ変わるから。


タブーをやぶって宋さんが明かした過去の夢の話によると、宋さんは中国から日本に留学でやってきて、「日本で技術を勉強し、世の中をあっと言わせるような技術革新をしたい」という夢を持っていた。
それが博士号取得目前に、中国で天安門事件が起きて、とても中国へ戻る気がしなくなった。
しかたなく日本に残り、事業家として成功もしてきた頃の夢は、「中国を良くするために、政治家になりたい」というものだった。そして、夢の実現のために、実際に中国に戻って、いろいろ調べたり体験してみたという。しかし、3ヵ月やってみて、「正直言ってこれは楽しくない」と気付いたとのこと。


日本に戻って、ビジネスに本格的に取り組むことにして、宋さんは大成功した。
しかし、会社は社会のものであって、自分のものではない、と宋さんは言う。今の宋さんの夢は、50歳までに会社をリタイアすること。その後の夢は、……もちろんナイショとのことだ。


「夢」って変わっていく。それでいい!


何者にもしばられない宋さんの源泉がここにあるのかもしれない。