サウンド・バイト:思考と感性が止まるとき


副題:メディアの病理に教育は何ができるか
著者:小田 玲子  出版社:東信堂  2003年10月刊  \2,625(税込)  250P


アメリカ発の「サウンド・バイト」について研究し、実際に米国で調査した実態も報告する研究書。
メディアの映像イメージや短い言葉の断片が人々の思考と感性を停止させることを警告し、社会にはもっと多様性が必要だ、と訴えている。


サウンド・バイト(sound-bite)は直訳すると、「音によるエサ」である。短いフレーズやキャッチコピーに音と映像をからめるメディアの手法のことを指している。
テレビ放送と同時にスタートし、人々に本当の問題を知らせないための娯楽を過剰に供給する絶好の手段として普及し、今も続いている。と著者は言う。


権力者が民衆に真実を知らせないために、目をそらせる性質があるということは、ローマ帝国時代の「パンとサーカス」以来の伝統なのだろう。


財界の圧力で、いまや教育の現場にまで効率のみが重要視される時代になっている。単純思考しか必要とされない教育・社会の中で、複雑な思考で対峙しよう、という著者の姿勢はよく分かった。


確かに、何か事件が起こったとき、どの放送局も同じニュースを何度も何度も垂れ流す。見せられる側は気持ちのいいものではない。(本書に出てくるアメリカの飛行機事故の例では、12時間ずっと流し続けた映像の中で実際の情報量は10だった)
こういうときは、「いいかげんにしろよ」とテレビに突っ込みを入れて、ニュースを見るのをやめることにしている。
そんな、ちょっとへそ曲がりの僕でも、「全くテレビを見ない」という著者の徹底ぶりには驚かされる。


少しは、世間と共通の話題がなければ、社会は成り立たないんじゃないの?
そう感じること自体が、サウンド・バイトに冒されていることなのだろうか。


いくつか、印象に残った著者の言葉を引用してみる。


講演会でのある有名人の発言を取り上げて。

見識などはひとかけらもない。主催者側は、こういう有名人の話を「ありがたく聞くだろう」と聴衆をなめているのだ。日本人もそろそろ、この類のセミナーに足を運ぶこと自体が思考停止の罠であることに気づくべきだろう。この類のセミナーの会場が、空っぽになるくらいの日が日本に訪れることを願う。


多様性の大切さを強調して。

自分で知識を得る方法を知る人がたくさん存在するコミュニティは、活力に満ちている。ハーバードの比較政治学者ロバート・パットナムは、それを社会資本と称した。道路や橋も社会資本であるが、地域社会の個別の問題を把握し、その対策を考え出せる人びとが存在することも、社会資本なのだという説を私は支持する。


本書の執筆動機を語るなかで。

「切実に生きている良い人柄の人が、なぜ過酷な宿命に会うのか」。このことが、私の人生の命題として心の深いところに横たわっている。裏返しは、欲が肥大した人間とそういう人たちでうごめく社会への嫌悪感を伴った深い疑問である。ソクラテスの時代からあるこの「人生の本質的な問い」が、私をとらえて離さない。
 私は、「儲け」それ自体を否定するほど、非現実的ではない。しかし、詐欺的な行為や詐欺的な行為や悪徳によって蓄財をする人びとが社会的にも栄え、肉体的にも健康な人が多いのはなぜか。(中略)本書は、メディアの凶暴化と儲け・貪欲さの関係構造を探求した。企業への必要以上の批判には、もとよりなっていないはずであるが、末尾に付言しておきたい。


結びの言葉として。

 良質の議論によって自らの考え方を練る反サウンド・バイト的な生活は、現在の日本では手に入らない。低級なマスコミ情報の渦に取り囲まれている今の多くの若者たちは、自分の力で人生の意味を考え出すことがますます難しくなってきている。消費そのものが目的化した、ニンジンを目の前にぶら下げられた哀れなロバなのである。
 本書が読まれるとするならば、そのような日本の文化環境に対する現状認識を共有できるかどうかという日本の社会的成熟度にかかっているのかもしれない。


いやはや、なんとも使命感の強い(言い換えれば選民意識の強い)著者である。


テレビを捨てられない僕は、「哀れなロバ」なんだろうな。



それでも読みたくなった方は、購入する際は、こちらから。(ただし、アマゾンでも2008/07/04 07:00現在の在庫は1点のみ。残念ながら希少本です)