著者:内館 牧子 出版社:講談社 2015年9月刊 \1,728(税込) 373P
定年後の人生のすごし方を考えさせられる小説である。
主人公の田代は、大手銀行の子会社専務として63歳の定年をむかえた。
最終日のチャイムが鳴ると、クラッカーと花束と記念品の祝福を受けたあと、最後の日だけの黒塗りのハイヤーに乗りこみ、全社員に見送られながら会社を去った。
定年退職したらのんびりすごしたい、という人もいる。
しかし、田代は会社人生に悔いが残っていた。
彼は東大法学部を卒業し、日本を代表するメガバンクに入行した。39歳で最年少の支店長に抜擢され、その後も銀行で順調に出世してきたが、49歳のある日、子会社への出向を命ぜられた。
「1、2年で本部に戻ってやる!」と必死に業績をあげたが、2年後、51歳のときに「転籍」を言われた。
「転籍」とは、親会社を退職して子会社の社員になる、ということだ。
これで本部にもどる可能性がゼロになった。このまま社員30人の雑居ビルの子会社で会社人生を終わるのだ、と考えたとき、
ああ、俺は「終わった人」なのだ
と、頭の中が冷たくなった。
それから12年。
田代は、
「俺は定年の日だけではなく、毎朝夕、黒塗りに送迎されるべき人間だった」
との思いが捨てられないまま定年の日をむかえた。
経済的に余裕はあるものの、まったく心の準備ができていない。
しかも、身体はまだまだ元気で、時間だけはたっぷりある。
ここから主人公は、絵に描いたような定年退職者のコースを歩む。
まず、妻に旅行を提案して「そんなに長い旅行はつきあえない」と断られる。
(田代の妻は、43歳でヘアメイク専門学校に入り、今は活き活きとヘアサロンではたらいている)
歩数計をつけて公園を散歩するが、どうにも楽しめない。
かといって「ジジババが集まる場所」と勝手に思っている図書館やカルチャースクールに行くのはプライドが許さない。
体力だけはキープしようとスポーツジムに申し込んだが、通いはじめてすぐに後悔した。
スポーツジムで見かけるのはリタイアした人間ばかり。昼間のスポーツジムは、田代が嫌悪するジジババのたまり場だったのだ。
このほか、ハローワークでの屈辱など、おきまりの失望をひととおり経験したあと、田代に転機がおとずれる。
きっかけは、スポーツジムで知り合ったベンチャー会社の社長と、カルチャースクールの受付で親切にしてくれた30代半ばの女性スタッフ。
ベンチャー会社の社長から会社の経営顧問に就任を要請され、カルチャーセンターの女性スタッフとは少しずつ親密な仲に発展する。
鬱々とした日々を送る定年退職者の物語はここから急展開を見せ、田代は人生を考えさせられる場面にいくつも遭遇し、平穏にすごしてきた自身の人生に危機がおとずれる。
最終新幹線に乗り遅れた女性スタッフは、熱海のホテルで田代の胸に飛び込んでくるのか。
田代は人生の危機を乗り越えることができるのか……。
あとは読んでのお楽しみとさせていただく。
はじめは退職者の悲哀の描きかたがステレオタイプに感じたが、主人公は「ぬれ落ち葉族」にも「色ぼけ老人」にもならなかった。
読みすすめるほどに予想のつかない展開が待っている。まるで、地獄篇、煉獄篇、天国篇を遍歴してまわるダンテの『神曲』のように、見事な作品だ。(『神曲』は読んだことないけど(笑))
さて、ここから、少し長い余談に入る。
定年後の長い人生を考えるとき、ロールモデルとなる2人のケースを紹介したい。
ひとり目は、僕の友人のOさん。
お子さんも社会人になって一区切りをむかえたこともあり、60歳を前に会社を早期退職して長く続けられる仕事に転職することにした。
Oさんが選んだのは、介護福祉の仕事。
専門学校で介護福祉について学んだあと、実家の近くの地方都市にもどって就職活動をはじめた。
いくつか介護施設に応募したが、Oさんの最終学歴が大学院博士課程修了であることがネックになり、「うちじゃ、こんな高学歴の人は雇えない」と採用に至らなかった。
(『終わった人』でも主人公は東大卒の経歴が敬遠されて不採用となっている)
やっと採用してくれる施設にめぐりあい、グループ老人ホームで介護職員としてはたらきはじめる。
シフト勤務しながら一職員として経験を積むつもりだったのだが、Oさんは慣れてくるにしたがって、いろいろなことが目につくようになった。
「こうした方がいいんじゃないでしょうか」と提案しているうちに、職場で一目置かれるようになり、リーダー的立場をまかされる。
やがてリーダーとしての実績が評価され、複数の介護施設を持つ福祉法人の人事部長に抜擢された。
一職員として、大きな責任のない現場仕事をするつもりだったのに、気がつけば組織の中枢を担う立場になってしまった。
現役復帰させられた形だが、Oさんに昨年お会いしたときは、気力体力が充実して意欲満々! に見えた。
Oさんの例はレアケースかもしれないが、
「機会があれば責任ある立場に返り咲くこともある」
という実例である。
ふたり目は、僕の父親。仮にAさんと呼ぶ(笑)。
Aさんは昭和3年生まれで、現在87歳。
北海道の開拓地で酪農を営んでいたが、長男が後を継がなかったので46歳で酪農をやめた。(長男というのは、僕のことです ^_^;)
農協の臨時職員をしながら、長男、次男を札幌の学校に進学させ、子どもたちが就職して肩の荷をおろす。
老人会のカラオケクラブや社交ダンスクラブに所属し、『終わった人』の主人公が「ジジババの集まり」と嫌ったのと対照的に、嬉々として交流を楽しむ。
65歳になったとき、長いことあたためてきた夢を実現することにする。
長年あたためてきたAさんの夢とは「ポニーを放牧すること」。
酪農という仕事で20年ちかく乳牛を飼っていたが、ほんとうは馬が飼いたかったのだ。
酪農をしていたころの牧場に10頭のポニーを放牧し、世話をしに軽トラで毎日通う生活がはじまる。
ポニーは寒さに強い。
マイナス30度ちかくなる極寒でも屋外で寝起きし、春になると子馬が生まれる。
2年たち、5年たち、10年が過ぎるころ、ポニーは100頭ちかくまで増えていた。
牧場を駆けまわるポニーの群れは、近くで見るとすごい迫力で、東京から遊びに来る孫(我が家の娘)も
「おじいちゃん、すごいね〜」
と驚いてくれる。
さすがに冬の牧草代がバカにならない金額になってしまい、毎年20頭売ってエサ代にあてるようになる。
20頭売っても、また春になると20頭増える。
ちょうどいいサイクルで年を重ねていったのだが、20年目で事件が起こる。
馬の検疫検査のため、役場の職員といっしょに一頭ずつポニーをつかまえて採血する作業をしていたとき、Aさんは突然前のめりに倒れた。
救急車で運ばれて一命をとりとめたが、意識がもどったとき、手も足も思い通り動かない。
診断結果は「頸椎損傷による神経マヒ」。
寝たきりの生活も予想された。
「もう、ポニーの世話はできない。全部売ってくれ」
Aさんのポニー牧場は閉鎖されることになった。
しかし、Aさんは奇跡的回復を見せる。
両手、両足が少しずつ動くようになり、歩行訓練ができるようになった。
歩行器につかまりなが、Aさんは50メートルの長い廊下を何度も何度も往復した。
1年のリハビリ生活のあと、自宅にもどったAさんは、家の中で歩行訓練をつづけている。
介護認定を受け、毎週3回のデーサービスでカラオケを歌うのを楽しみにしている。
自分の父親のことを褒めるのは恥ずかしい気もするが、Aさんは「ジジババの集まり」に通っているときも、ポニーを飼っているときも、心の底から楽しそうだった。
きっと、いまもデーサービスが楽しくて楽しくて仕方がないに違いない。
ポニーを飼うのは見習いたくないが(笑)、ものごとを心の底から楽しむ姿勢は本当にすばらしいと思う。
自分のことを「終わった人」なんて決めつけなければ、Oさんのように予想外の展開をすることもあるし、Aさんのように人生に楽しみを見つけつづけることもできる。
人生、まだまだこれからですよ〜