副題:メディアとイメージの世界大戦
著者:大野 裕之 出版社:岩波書店 2015年6月刊 \2,376(税込) 2937P
チャップリンが監督・主演し1940年に公開された『独裁者』という映画がある。
当時ヨーロッパで勢力を拡大していたナチスの総統ヒトラーを題材にして、独裁者のこっけいさを笑い飛ばす作品である。
本書は、この作品がつくられた時代的背景を読みとき、チャップリンがどのようにしてヒトラーと戦ったのかを明らかにするルポルタージュである。
映画『独裁者』が作られるまで、チャップリンとヒトラーには、ほとんど接点がなかった。
ロンドンの貧民街に生まれ、貧しい少年時代を送ったあとアメリカで喜劇映画の王様として大成功したチャップリン。
いっぽうのヒトラーはオーストリアの中流家庭に生まれ、青年期に画家を目指したものの芽が出ず、政治家へ転身。
ドイツの権力を掌握したあと、周辺国に勢力を拡大しようとしていた。
アメリカとドイツ。
映画と政治。
チャップリンとヒトラーは、住んでいる場所も活躍する世界も違っていて、あえて共通点を探すとすれば、歳がいっしょということと、同じようなチョビ髭を生やしていることくらいだった。
しかし、チャップリンが『独裁者』をつくることを決めたとき、2人はイメージの世界でまっこう勝負することになる。
「民衆に熱狂的に迎えられるドイツ希望の星」というヒトラーのイメージと、「こっけいで幼児的なダメ男」というチャップリンが描いた「独裁者」のイメージと、どちらが世界に広がるか、という勝負だ。
ナチスから妨害され、周りから反対されながら映画づくりを進めたチャップリンが最後に勝利をおさめるまでの流れを、本書にそってたどってみよう。
チャップリンとヒトラーの戦いは、ヒトラーが権力をにぎった1933年の直後からはじまっていた。
チャップリンを嫌うようになったきっかけは、チャップリンがユダヤ人だといううわさが流れたことだ。
うわさが本当かどうか訊かれても、チャップリンは、
「ユダヤ人かどうかについて答えることは反ユダヤの術中にはまる」
と答えなかったという。
ユダヤ人であることも気に入らないのに、チャップリンが平和主義者であることを公言し、ドイツ国内で大人気であることは、ナチスにとって無視できない問題だった。
おまけに、あのチョビ髭。
威厳をつけるためにヒトラーがたくわえたチョビ髭が、たまたまチャップリン演じる「放浪者チャーリー」と同じ髭だった。
チャップリンが先に有名になっていたので文句をつけるわけにいかないし、ヒトラーが髭を剃ってしまうと権威が失われる。
かといって放置しておけばパロディのネタになってしまう。
困ったナチスが決めたのは、チャップリンを国民に見せないようにし、あらゆる手段で攻撃することだった。
1934年に映画検閲局での外国映画審査を義務づけ、翌年末にチャップリン作品を上映禁止にした。
あの髭が目につかないよう、作品だけでなくチャップリンを図案にしたポストカードの販売も禁止した。
チャップリンを好意的に論評することを禁じ、国民に見えないようにしたあと、ナチスは人々の記憶の中のチャップリンのイメージをダウンさせるため、「チャップリンは盗作者だ」というキャンペーンまで行う執拗さを見せた。
ナチスの攻撃をどれほど気にしていたかは分からないが、チャップリンはチャップリンで、自分自身の「イメージ」と戦っていた。
一部トーキーを導入した『モダン・タイムス』を1936年に公開したあと、いよいよ次は本格的なトーキー作品にチャレンジする必要を感じていた。
しかし、「放浪者チャーリー」は無声映画ならではのパントマイムの動きで人気を得てきた。
どのようにトーキー作品に登場させればよいのか。
いくつかのできごとに刺激されてチャップリンがひらめいたのは、ヒトラーと放浪者の両方を登場させる、というアイデアだった。
トーキー部分でヒトラーがデタラメ演説をしゃべりまくり、無声部分で放浪者がパントマイムを演じる。
そうすれば、チャーリーの魅力を残したまま、トーキー映画で風刺もパントマイムも両立できる!
1937年10月9日、こうして最終的に3年におよぶことになる新作映画のプロジェクトが始まった。
準備をはじめたものの、先行きはくらかった。
ドイツ、イタリアでチャップリンの作品は全面的に禁止されていたし、まだドイツと「同盟国」だったイギリスや、ヒトラー宥和政策を布いていたフランスでも上映禁止される可能性が高かった。
全世界の興行収入の35%を占める大英帝国の植民地で上映できないのは痛い。
おまけにアメリカ本国での上映をあやぶむ声まで上がってきたが、チャップリンは製作をあきらめることはなかった。
何度も口述筆記を繰り返し、さまざまなアイディアを出して台本を練る。
約2年かけた準備のあと、1939年9月に撮影を開始。
撮影記録をたどりながら著者の大野氏があきらかにしたのは、ひとつのシーンに何日もかけて撮りなおしを繰り返すチャップリンの完璧主義だ。
たとえば、独裁者ヒンケルが地球儀の風船とダンスをするシーン。12月22日から27日にかけて撮影したものの、翌年の元旦から3日まで何度もラッシュ・フィルムをチェックした結果、取りなおすことを決める。
1月6日と15日に再撮影し31日に全体のラッシュを見たあと、2月1日から3日までもっぱら地球儀のダンスの撮影フィルムを延々と見直したという。
5日にヒンケルがカーテンに昇るシーンを撮りなおし、6日にまた地球儀のダンスを撮る。7日から別のシーンを撮影したあと15日にまたまた地球儀のダンスを撮る。
16日にラッシュをみて、やっとチャップリンは満足したという。
チャップリンが映画制作に集中しているあいだに、世界は動いていた。
『独裁者』撮影開始の8日前、1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が開戦。
映画の本撮影が終了した1940年3月にヒトラーとムッソリーニが会談し、イタリアも参戦。4月にはヒトラーがアウシュビッツ強制収容所の建設命令を出した。
2人の独裁者の会見も、強制収容所の存在も、フィクションとして映画のシナリオに書いたことを現実が追いかけてきた。
少し前までヒトラーを題材にした映画に反対していた世論が、戦争が大きくなるにしたがって、
「急げ、早くやれ、みんな待っているのだ」
「戦争の終わりを待っているのか」
という論調になった。
世論の無責任さをよそに、チャップリンは納得いくまで最後の演説シーンに時間をかけ、公開の5日前にやっと満足した。
1940年10月15日にニューヨークでプレミア上映会が開催されたあと、世界中で『独裁者』は大ヒット作品となった。
ナチスの妨害により一部の国で上映されなかったが、公開後4ヶ月半の時点で、世界中で3千万人が見たという。
大野氏は、次のように宣言している。
大勢の人々が見ただけではない。
『独裁者』が公開されてから、ヒトラーの演説の回数が激減したという。
ヒトラーの「イメージ」を笑いとばすことで、チャップリンはヒトラーから「演説」という武器を奪ったのだ。
しかし、ヒトラーその人が歴史の舞台から退場したあとも、「ヒトラー的なもの」は残っていた。
第二次大戦後、ヒトラー的なものが「マッカーシズム」という形でチャップリンに襲いかかっていくのだが、くわしい顛末については本書の第8章をご覧いただきたい。
最後に、大野氏の結びの言葉を引用して、このレビューを終わりたい。
かくして、チャップリンは、そして『独裁者』は、メディアという戦場でこれからも闘い続ける――ユーモアという武器でもって。