青森ドクターヘリ劇的救命日記


著者:今 明秀  出版社:毎日新聞社  2014年11月刊  \1,620(税込)  255P


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青森県初のドクターヘリで救命救急医療にたずさわっている医師の手記である。


著者の今明秀氏は1958年青森市生まれ。


青森高校を卒業し、僻地や地方の医師を育成する目的で設立された自治医科大学の6期生となった。


1983年に自治医大を卒業。
青森県立中央病院で2年間の臨床研修を行い、内科、外科、産婦人科、小児科など、いろいろな診療科目をローテーションしたあと、最終的に外科を選んだ。


一日も早く僻地・地域医療に貢献できるようになりたいと思っていたとき、研修2年目で今氏は忘れられないできごとを経験する。


暴漢に刺された患者が運ばれてきたとき、しぼんでしまった肺を再膨張させる胸腔ドレーンを入れたものの、ほかに何の処置もできなかったのだ。


外科医の先輩に来てもらったが、先輩も自分もどう処置をすればいいのかわからない。
経験をつんだ今なら100パーセント救える命なのに、救急救命医学がなかった当時は、どうしていいか誰も知らなかったのだ。


患者は、血圧低下とともに意識がなくなり、手術室の準備中に、目の前で亡くなってしまった。


今氏は自信を失った。
目の前に運ばれてきた外傷患者を救うこともできないで、外科医を目指すなんて傲慢ではないのか。


自分はどうすればいいのか、との思いをかかえたまま、2年間の臨床研修を終え、当時の三戸群倉石村(さんのへぐん くらいしむら)、現在の五戸町(ごのへちょう)の診療所に勤務した。


倉石村の診療所は、12床しかない。
小さな診療所で医師も自分ひとり、という心細い環境で必死だった著者を村の人々はあたかかく迎え、頼りにしてくれた。


その後、上北郡の公立野辺地病院、六戸国民健康保険病院、国民健康保険大間病院などに勤務し、経験を積むなかで医師として進む道が定まっていった。


多くの医師は、陽のあたる大病院での出世や名声をめざすが、今氏はちがう考えを持った。


たとえばがんの手術などの難しい技術を持つのは、一部の大学や専門病院の医師で十分なのではないか。がんになったとしても、優れたがん治療をする病院に行く時間的余裕はある。


一方で、突然の事故や事件で大けがをした患者や、脳卒中心筋梗塞などで倒れた患者は一刻を争うのに、救急医療体制が整っている地域は少ない。


助かるはずの命を助けられるよう、地域の救急医療体制を担う医者を目指すことに決めた。


当時の青森県では、現場で働く救急専門医は1人もいなかった。


1997年、今氏は救急救命医療を学ぶため、日本医科大学附属病院の高度救命救急センターの門をたたき、関連病院である川口市立医療センターに勤務することになった。


川口市立医療センターには当時5人の医師がいて、救急車で運ばれる年間2000人の急患に対応していた。


約500人が重症のケガなのに、外科医はセンター長と今氏しかいない。
365日24時間オンコール状態で、次々と手術をこなしながら、今氏は救急救命技術を習得し、2年たったときには若い医師を教える立場になった。


青森に帰ることを真剣に考えるようになったころ、3箇所からオファーを受けた。
それぞれ、青森県立中央病院の副部長、弘前大学の助手、八戸市民病院の救命救急センター所長のポストを用意しているという。


「自分は青森で救命救急をやりたい。そのためにドクターヘリを飛ばしたい」と条件を出したところ、県立中央病院と弘前大学はまともに相手をしてくれなかった。


日本全国で7機しかドクターヘリが飛んでいない時代で、予算的に無理な話と思われたのだ。


ところが、八戸市民病院はちがった。
ドイツ視察でドクターヘリの必要性を感じた市長が、ヘリポートだけは作っておいたと言うのだ。
2004年4月、今氏は八戸市民病院に赴任した。


救命救急センター所長として、まずスタッフの力量をあげるための教育からスタート。


救急現場でどうすればよいかを、看護師や救急隊に講習と実習を繰り返す。
救急医を指導する「日本救急医学会指導医」という資格もとって、若い医師の指導責任者にもなった。


人材の育成は、とっかかりにすぎない。
実際にドクターヘリを導入するためには、政治家や県の役人の協力を得なければならない。


ドクターヘリの重要性や八戸市民病院の救命医療のレベルの高さをアピールしつづけ、努力がみのって、ドクターヘリの運行が開始されたのは、2009年3月25日のことだった。


ドクターヘリの活躍はめざましかった。


救命率を上げるためには、1秒でも早く患者と医師が接触しなければならない。


ドクターヘリ導入まえは、救急車が患者を救命救急センターに搬送する方式だった。
これだと、119番通報を受けたあと30分以内に医師の緊急処置がはじめられる範囲は、半径20キロ以内だった。


ドクターヘリを導入すると、これが50キロ以上と、一挙に倍以上に広がった。
ヘリコプターに医師が同乗するので、現場到着と同時に医師の緊急処置がはじめらるからだ。


平均すれば、119番通報からほぼ14分後には、医師が現場に到着、緊急処置が開始できる体制が整ったのだ。


ドクターヘリの救命活動は、次のように行われる。


救急医が通常のER(救急救命室)勤務を行っていると、専用PHS電話に「ドクターヘリ出動」の文字がうかびあがる。


出動指示はいつ発令されるかわからない。
救急車で搬送されてくる救急患者の治療中の場合など、引き継ぎやメンバー調整が必要な場合もあるが、ともかく医師がヘリポートに向かって走り出す。


すぐに追いかけてくる看護師1名と、200メートルの廊下を20秒もかからずに走り抜ける。


出動用の作業靴に履き替え、
  「この先ヘリポートにつき、関係者以外立ち入り禁止。開放厳禁」
と書かれた鉄のドアを押し開け、ヘリポートに出る。


医師と看護師が乗ると、整備士がドアをしめ、ドクターヘリが飛び立っていく。


患者を乗せた救急車が待っている着陸地点(ランデブーポイント)に着くと、患者の容態をたしかめ、その場で応急手当をする必要がある場合は処置を開始。


病院到着まで容態がもつと判断した場合、ヘリコプターに患者を乗せ、八戸市民病院にもどってから処置を行う。


本書には、多くの救急患者が登場する。
山林で木の下敷きになった男性、車どうしの衝突で重傷を負った人、トラクターに胸をはさまれた男性、保護された遭難漁船の乗組員、心肺停止となった工場労働者……。


大けがの原因はさまざまだし、外傷の場所も程度も一人ひとりちがう。まったく同じ外傷ばかりなら、救命率は100パーセント近くまで上げられるかもしれないが、現場は、いつも新しい。


経験したこともないような外傷に出会ったとしても、救命救急医は、患者の前から逃げられない。


一刻をあらそう救急現場にかけつけ、重篤な患者に処置をほどこして命をすくう場面の連続は、はらはらドキドキのしどおし。


まさに「劇的」であるが、「劇的救命」には、実は定義がある。


救急医療の世界に、「予測救命率」という指標がある。


「解剖学的重症度(ISS)」と「生理学的重症度(RTS)」をもとに計算されるもので、0.1は生存可能性が10パーセント、1.0は生存可能性が100パーセントであることを示している。


この「予測救命率」が50パーセント以上の確率で助かる可能性があったにもかかわらず、結果的に死亡するのが「予測外死亡症例」であり、逆に50パーセント以下の患者が助かることを「劇的救命」と呼ぶ。


今氏が救命救急センター所長をつとめる八戸市民病院は、訓練された救急救命医とドクターヘリを活用し、今日も劇的救命を次々と成功させている。


50歳代後半になっても、チームの先頭に立ち、人材を育成し、走りつづけている著者の勇姿を、ぜひご覧いただきたい。