副題:再生・日本製紙石巻工場
著者:佐々 涼子 出版社:早川書房 2014年6月刊 \1,620(税込) 267P
東日本大震災で破壊された製紙工場が、短期間で復旧するまでの過程を追ったドキュメンタリーである。
2011年3月11日。
南を太平洋、西側を工業港、東を旧北上川に囲まれた工場は、三方から巨大な津波に襲われた。
津波の黒い水は土煙を上げて構内になだれ込んだ。
引き込み線のレールをぐにゃりと曲げ、貨物用のディーゼル機関車をなぎ倒し、工場の壁やシャッターを突き破り、様々なものを破壊していった。
さまざまな瓦礫も流れ込み、あとで発見されることになる41名の遺体も含まれていた。
「おしまいだ。きっと日本製紙は石巻を見捨てる」
従業員のだれもが、そう思ったという。
しかし、工場長の倉田は3月末に宣言した。
半年で製紙ラインの1台を動かす、と。
半年でできるわけがない、と現場作業者の多くが心の中でつぶやいたが、「できないなんて、一言たりとも言わせない」という気迫に、誰も反対の声をあげることはなかった。
まず、ボイラーとタービンの復旧が急がれる。
そのボイラーを立ち上げるためには、電気が必要だ。
だが、電気設備はほとんどやられていた。設備の多くが工場の一階にあり、みな塩水に浸かってしまったのだ。
復旧のために6万6千ボルト用の特別高圧ケーブルがいる。
手に入れようとしたが、ケーブルは被災地のどこでも必要としていて、入手困難だった。
しかし、「震災でケーブルが調達できません」という報告を聞くと、工場長の倉田は言った。
「お前、どんな探し方したんだ? 探す気あんのか?」
「絶対ないと言えるか? ほかの可能性を探ったか?
ないなら廃業した工場からひっぺがしてこい!」
東京本社やすべての支店に協力してもらってケーブルを手に入れた。
不眠不休の設置工事のおかげで電気のめどが立っても息は抜けない。
つぎは水に浸かった7千台弱のモーターの復旧だ。
新品を発注していたら、何年もかかってしまう。
応急処置として、でっかい釜で煮ることにした。
塩水を抜いて、絶縁処理して、ベアリングを交換する。
スイッチを入れてみると、きちんと動いた。
電気課の努力のおかげで、工程どおりにボイラーに電気が通った。
すごい! と工場内は色めきたった。
「自分のところで遅れさせるわけにいかない」、という駅伝リレーがはじまったのだ。
復旧をめざした作業は、ボイラーを担当する原動課、100台以上のポンプを整備する調成課と、つぎつぎにバトンタッチされていく。
ときに瓦礫の撤去作業と復旧作業の作業場所が重なり、どちらが先に作業するかをめぐって殺気だつこともあったが、同じ目標にむかって時間を融通しあった。
震災から半年たった9月14日、いよいよ「8号マシン」の稼働開始の日がきた。
動き出したマシンの中を紙がスムーズにつながるのは難しい。
どこか不具合のあるところで紙が切れてしまうと、もう一度つなぎなおし。紙が最後のリールまでつながるまでに、通常は1時間以上かかる。
それが、この日は28分しかかからなかった。
新記録で紙がつながったのだ。
こうして、製紙機械が再稼働するまでの苦労の数々を描きながら、本書は、本当の震災被害のすがた、テレビや新聞が報じた美談とはちがう、やりきれない現実も伝えている。
また、石巻工場の社会人野球チームの葛藤も取り上げている。
会社がたいへんな状況なのに野球をやっていてもいいのか。そもそも野球部は存続できるのか、という不安をかかえながら練習する部員を追う。
ここで優勝でもすればドラマチックなのだが、震災の年も翌年も不満足な結果に終わってしまう。
「復興のシンボルになるんだ」という気持ちが大きすぎて、コチコチに
なってしまったのだ。
周辺のエピソードを紹介したあと、話題は製紙機械にもどってくる。
石巻工場の復活を出版関係者は待ちわびていた。
石巻工場は日本製紙の心臓部であると同時に、出版界の心臓部でもあった。
石巻工場が生産を再開したとき、集英社がいち早く『ONE PIECE』と『NARUTO』の紙を発注し、他出版社も応援を惜しまなかった。
工場の従業員が駅伝のようにつないで作った紙が、こんどは出版社に手渡されたのだ。
本書著者の佐々氏は、現地取材しているうちに、自分も「たすき」を受けとったように感じたそうだ。
佐々氏が感じた想いは、「プロローグ」と第一章の原稿を受けとった出版社にも伝わる。
「これは世の中に伝えなければいけない、自分たちがやらなければならない仕事だ」
6月にこの本が出たあと、各地の書店員からの反響も、とても熱いという。
「たすき」の手渡しは、今もまだ続いている。
おくればせながら、僕も「たすき」受けとった一人として、次の人に託したいと思う。
このレビューを最後まで読んでくれたあなたに、「たすき」を渡します。