キャパの十字架(その10)

(承前)


いくら有名とはいえ、もう75年も前に撮影された写真である。撮影場所が特定できるかどうかも分からないのに、沢木はともかく現地へ飛んだ。まず、この写真について研究してきた先達たちを訪ねて話を訊いたあと、撮影地とおぼしき場所へ足を運び、当時の写真を何度も何度もみなおしながら、自分が“何か”に気づくのをひたすら待った。


ルポライターならではの現場主義は、いくつもの幸運をたぐりよせ、沢木自身が腑に落ちる、ある結論に達した。


沢木はどんな謎解きをし、どんな結論に達したのか?
――いつも通り内容のネタばらしは自粛させてもらい、つづきは読んでのお楽しみとさせていただく。


ひとつの結論に達したあと、沢木はキャパのその後の人生に思いを馳せる。


キャパは22歳で「崩れ落ちる兵士」を撮ったあと、24歳で日中戦争を取材する。
25歳でスペイン戦争が終結し、26歳でアメリカへ渡った。
28歳のときアメリカが第二次大戦に参戦し、キャパは従軍記者となる。
29歳で来たアフリカ戦線やイタリア戦線を取材。
30歳でノルマンディー上陸作戦の最激戦地を撮影。第二次大戦を代表する1枚となる。
31歳で第二次大戦が終結し、戦争写真家として「失業」する。


戦争写真家をやめたキャパは、さまざまな土地を訪れ、平和を取り続けた。
ピカソマチスも撮ったし、女優のイングリッド・バーグマンと恋仲になったりもする。
一見すると華々しい活躍だが、沢木は次のように言っている。

だが、私には、それ以後のキャパはカメラマンとしての永い「余生」を送っていたかに見える。


1954年、毎日新聞社に招待され日本国内を撮影旅行していたキャパに、インドシナ行きのオファーがあった。キャパは久しぶりに戦地へ飛ぶことにする。
そして1954年5月、ベトナムハノイ南方の戦場で地雷に触れて死亡。41歳であった。


本書には触れられていないが、キャパは戦場の悲劇を撮りながら、子どもたちや女性の笑い顔の写真もたくさん残している。日本で撮った写真からは、異国の子どもたちの姿を通して平和のすばらしさが感じられる。


だから、戦後のキャパは「余生」を送っていた、と評する沢木の見解に僕は賛同はできないが、平和を撮ることが「ライフワーク」であっても「余生」であっても、キャパがもう一度戦地へ行くことを選んだのは事実である。


もう戦場へ行きたくないと言っていたキャパは、なぜインドシナに向かったのだろう。


沢木の解釈では、キャパの背負った「十字架」は、第二次世界大戦を代表する1枚を撮ったことで解消されたはずだった。しかし、キャパのインドシナ行きの選択は、もしかするとキャパが「十字架」を背負いつづけていたことを示しているのかもしれない。
「偉大な写真家」という重い十字架を。


キャパの十字架    ご購入は、こちらから